【端緒】
十一歳の時分、銀時には時疫を患って数日間寝込む、という出来事があった。
他の子供たちに伝染ってはいけない……ということで、授業が行われる小屋にはまったく近寄らせてもらえず、熱に浮かされた状態のまま離れに押し込められた。
軽い発疹と高熱が続き、医者が診まいに来ても夢うつつ。
日に一度は師匠であり身元引受人でもある吉田松陽がやってきて、その一日、塾内で起こった出来事を話してくれる。
寝込みはじめて三日が過ぎたころ、塾に新しい子供がやってきたという話を聞かされた。
銀時もそのひとりではあるのだが、吉田は時々、身寄りのない子供を引き取ってきて、私塾内に住まわせることがあった。その延長線上として、吉田の下に弟子入りした名門の家の子供たちが、数日ほど塾に逗留するようになっていたのだ。
「元を辿れば、毛利家に流れ着く萩藩の武家の子供なのだが、士道だけでなく学問もきちんと修めたいと言ってね。しばらくここの門下生となり、この塾で暮らすことにしたそうだ。ちょうど――お前や晋助と同じ年頃だろう」
「どうせまた、数日で逃げ出すに決まってる」
「いいや、相当の長逗留の覚悟があるそうだよ」
その新入りときたら、男の子なのに、たいそう綺麗な子供なものだから、初日は誰ひとり、声もかけられないで終わったよ――と、吉田は随分と可笑しそうに語ってくれた。
武家の子供であるのだから、藩が作った学校に入学して通うこともできるはずだ。
吉田の思想はどちらかというと万民の平等を説くもので、身分制度を堅持している藩の上層部、ひいては幕府の側からは睨まれても仕方がないようなものである。ゆえに、かつては藩校で講師をしていた吉田だったのだが、現在は私塾で読み書きや講釈術を教えつつ、その思想を喧伝するに留めているのだった。
だが――すぐに近隣諸藩に吉田の名は広まってしまい、
「門下生に」
と望む者は、身分の別を越えて後を絶たなかったのである。
「随分と、物好きな餓鬼だな」
と自分もまた餓鬼の分際でありながら、熱に浮かされつつも憎まれ口を叩く銀時を、
「まあ……人それぞれ、事情もあるさ」
と――吉田はさらり、かわす。
けれどもそれは、熱もまだ半端にしか下がっていない銀時にとって、どうでもいいような話題だった。
膳は、一日に二度、身体の丈夫な年上の塾生が運んで来てくれる。子供のくせに妙に醒めていると言われることの多い銀時にしては珍しく、一日も早く治そうと飯もがつがつ食らって闘病に熱心になっていた。
勿論、早く治して授業に戻りたい――などと気が急くほどに、学問の好きな性質ではない。
ただ、長い間ただ一人きりで居るのは、気持ち的にどうにも良くない。途切れ途切れに眠る間、以前に見た情景が繰り返し、銀時の夢の中に現れるのだ。
それは、吉田に連れられて訪れたある村で偶然見てしまった情景だった。流行り病に罹った子供と、その子供にすがりつくように座り込んだ母親の姿。片方の手に数珠を握り、もう片方は子供の小さな手をぎゅっとつかみ、一心不乱に祈っていた。
そんな情景が夢枕にぼう、と浮かぶ度に、銀時もまた朦朧としたまま誰かの手にすがろうとするのだけれども、すがりつく相手の検討がつかなくて、どうにも困るのだった。
さみしい――などという感情は、すがりつく相手を持つものがそれを喪失した時に初めて感じる情緒である。だから、病に罹ったいまの銀時を包んでいる漠とした寂寥感のようなものは、母親の顔というものを想像して見る時と同様に、のっぺらぼうの虚に過ぎないのだった。
それから数日、見まいに来る吉田の話の大半を占めているのは、なぜだかその新入りのガキの話で。話の内容を総括すると、そいつがどうも同世代の塾生たちとなかなか馴染めないので、吉田も少々苦心している、とのことだった。
年上の門下生たちも、なにやら気おされて、声一つ掛けられない状態なのだという。
「坂本君でも居てくればいいのだが」
坂本は家業の手伝いで、暫らく肥前の方に出かけてしまっているとも聞かされていた。つまりは、さっさと治して、お前がなんとかしてやってくれ――と、吉田は言いたいのだろう。
吉田松陽がその叔父から引き継いだという塾は、萩藩の松本村という場所にあった。
私塾の本拠地となっている小屋は、二間で構成されている。
八畳の部屋では、毎日、吉田の講義が行われていた。銀時のように身寄りのない子供たちや、特に熱心な門下生たちが寝食を共にしていたのは、増築された十畳半の広間の方だ。
一週間ほどで銀時は快復し、さあ久しぶりに吉田の授業でも受けてやろうかと八畳の方の部屋に足を踏み入れると、最前列に銀時と同じくらいの年の子供がちょこんと座っている。
吉田が言っていた例の新入りだ。
毎日聞かされていた通り、ちょっと見たことのないくらい綺麗な子供だった。この辺の悪童どもとは、まるで、違っている。
艶のある流れるような黒髪をひとつにまとめて結い上げ、着物の上にはきちんと羽織を重ね、頭の先からつま先まで、一分の隙もない。
通常なれば、優等生風の坊っちゃんなどというものは、まずは散々ガキ共の虐めの洗礼を受け、それからようやく仲間に入れてもらえる、という段取りなのだが、あんまり端整で隙のないその様子に、子供たちの側もどうにも手の出しようがないらしい。
やんちゃな高杉でさえ、まだなにも仕掛けていないというのだから大したものだ。
まだ授業が始まるずっと前だというのに、背筋をピンと伸ばして教本をとんとん整えているのを、すでに部屋に入っている子供たちが遠巻きにちらちらと眺めている。
興味と関心はあるが、兎にも角にも、どうにも声をかけ辛い……といった風情だ。
となれば、場の雰囲気を読んで、そいつの方からまわりの子供たちに声をかけてやればいいのだけれど、周囲の気配になどまるで気付くことなく、落ち着き払った様子で教本を開き、その上に視線を落としている。
やれやれ、また勉強熱心な餓鬼が増えたか――と、ため息を洩らしつつ近づくと、銀時は何食わぬ顔で真後ろに腰掛けた。
いつもならば最後列の壁際に陣取り、講義中であろうとも壁によりかかって自由気ままに居眠りなど決め込んでいる銀時なのだが、吉田からなんとなく頼まれていたこともあり、とりあえずその少年のすぐ後ろに座ることに決めたのだ。
目の前にすわる少年からは、なんだか甘いような、花の蜜ような、とてもいい匂いがする。
暫らく休んでいた銀時が、臆することなくさっと新入りの近くに座ったのを見て、他の子供たちもじわじわと、二人の近くに席を取り始めた。
そうして――
講義の前のざわついた空気の中、銀時はおもむろに、その少年のさらさらの黒髪を、そっとひと房つかんだ。
そのひと房を引っぱりながら、
「これ、ヅラ?」
とぼけた調子で訊く。
一瞬、広間の中が、しん、と静まり返った。
銀時は、物怖じせず飄々としていると思われている。そんな銀時であるとはいえ、門下生すべてが気圧され、声すらかけられなかったその少年に、そんな冴えない冗談を言うなんて――という呆れた雰囲気が、四方八方からひたひたと伝わってくる。
少年の白い貌が、冷ややかに銀時を見た。
その貌に向かって、へらっと笑いかける。
視線が交錯した。その瞬間、
「……ヅラではない」
言いながら、真面目な顔ばかりを見せていたその少年は、不意に笑いを噛み殺すような表情をして見せた。
「ヅラじゃねぇの?」
「ヅラではない、おれの名前は桂小太郎だ。覚えておけ」
声音こそ尖っていたものの、はにかむようなその貌に、うん、確かに可愛い――と、そんなことを思いつつ、それで吉田もつい毎日、この子の話をしていたのだなと、なんとなく合点がいった。
話しかける糸口として銀時が利用した「ヅラ」という単語のおかげで、その後少年は気安く「ヅラ」と呼ばれるようになり、それ以降、門下の子供たちも気安く桂と話せるようになった。
それでようやく、桂の存在は、塾生たちに馴染んだのである。
「お前がいると、本当に助かるよ」
と吉田からは、暫らくして思い出したように礼を言われた。