韓国戦争(朝鮮戦争)の最後の1952年、日本は韓国が北朝鮮と戦闘に集中する隙を狙ってこっそり独島を占領しようとした。 日本は独島に領土表示板を立て、独島近くで魚を獲る韓国の漁師たちを追い出した。 漁師たちは屈せずに独島に行って「独島は私たちの土地」という標識を立てた。
同年7月、洪淳七(ホン·スンチル)独島義勇守備隊長は、戦争で負傷し、名誉除隊した。 故郷に帰って日本の独島占領の野望を聞いたホン·スンチル隊長は、躊躇なく独島を守ることを決心した。 参戦軍人と住民33人を集めて「独島義勇守備隊」を発足させた。
武器などを用意した義勇守備隊は1953年4月、漁船に乗って独島に上陸した。 3ヵ月後の7月、日本の武装巡視艦との初戦闘を皮切りに、義勇守備隊は独島に接近する日本艦船を追い出し始めた。 当初は小銃のみで武装していたが、次第に迫撃砲などの重火器も備えていた。
1954年11月21日。 その日は日本が比較的大規模な兵力を独島に送った。 武装巡視艦2隻が独島に接近し、義勇守備隊は非常事態となった。 33人の勇士らは、武装巡視艦「へくら」と「おき」が独島近くの500メートル地点に進入すると、M1小銃と迫撃砲攻撃を浴びせた。 猛烈な勢いに驚いた日本の軍艦は、船を回さなければならなかった。
国家報勲部によると、該当戦闘は義勇守備隊が日本と戦って最も大きく勝利した戦闘だ。 特に守備隊は、迫撃砲に見当もつかないなど劣悪な状況で、完全武装した日本軍艦2隻を撃退した。
義勇守備隊記念事業会が2013年にこの戦闘を「独島大捷」と宣言した背景だ。 報勲部は独島大捷について「日本が再び独島を不法侵犯できない契機になった」と評価した。
21日、独島大捷の第70周年記念式が国立大田(テジョン)顕忠院(ヒョンチュンウォン)顕忠館で独島義勇守備隊記念事業会の主管で開催される。 姜禎愛(カン·ジョンエ)報勲部長官と記念事業会の会員、学生、市民など400人余りが記念式に参加する。 生存隊員の回顧の辞、独島守護決議文の朗読などの順で進められる。
姜正愛(カン·ジョンエ)長官は「70年前に日本侵略に対抗した独島守護英雄33人の闘魂と献身のおかげで、独島に対する領土主権を堅固にすることができた」とし「独島守護英雄の愛国精神を胸に深く刻む意味ある席になることを願う」と話した。