「西宮北口に新球場を造れ」。ワシントンの小林一三から指令を受けた阪急電鉄首脳はすぐさま行動を開始した。
(1)日本で初めての2階席スタンド
(2)内外野のスタンドは曲線を描き、すべての席が本塁に向かっている
(3)組み立て式バンクを設置し競輪場としても使う(稼働は昭和24年3月)
11年12月1日に地鎮祭を行い、「竹中工務店」が昼夜兼行の突貫工事で5カ月後の12年4月30日に竣工(しゅんこう)したのである。
両翼91メートル、中堅最深部120メートル。内野席3万7000人、外野席1万8000人、計5万5000人収容の大球場。地上9階建てで外装はクリーム色。「白亜の球場」と呼ばれた。
球場内部には中央に役員室や記者室。左右に選手のロッカールーム、浴室、シャワー室、食堂、喫茶室が完備され、スタンドには売店のほかに郵便局まであったという。入場料は一般席50銭(特別席1円)。制服学生と軍人は半額、婦人と子供はなんと無料。お客さまを大切にする〝一三イズム〟が浸透していたのである。
さて、また余談をひとつ。当初の一三の構想では西宮球場は「電車を降りたらすぐに球場入り口」と、西宮北口駅と直結する予定だった。ところが、思わぬところから計画が狂った。「阪急ブレーブス50年史」の中でこう記されている。
「用地買収で駅周辺の一部でどうしても買収に応じない土地があり、計画変更のやむなきに至り、駅からしばらく歩いていくルートとなった」
たしかに筆者が61年にブレーブスを担当したとき、阪急「西宮北口駅」からクネクネと歩きながら<なんでこんな住宅地に球場を造ったんやろ…>と思ったもの。
実は当時、西宮球場の建設にあたり、「目と鼻の先に甲子園球場があるのに、なぜ、同じ西宮市にもうひとつ球場がいるのか」という反対意見が起こった。阪急の買収に応じなかった土地のほとんどが、阪神電鉄関連の土地だった-といわれている。ライバル意識はこんなところにも働いていたのである。(敬称略)