いてもいいと言ってくれ。
愛することは許すこと。一度や二度ではなく、何度も何度も許すこと。許すことと諦めることは違う。許すことは諦めないこと。人間を見限らないこと。誰一人置いていかないこと。自分や他人を見捨てないこと。全員連れていくこと。許すことは「いてもいいよ」と言うこと。許せない自分を許すこと。許せない自分を、そのまま許すこと。
愛知県在住の女性R様が、奇跡の家に泊まりに来た。R様は言った。これまで、トイレにゴミを置きっぱなしにする人を見て、嫌で嫌でたまらなかった。自分で捨てろよと思ったし、ゴミも、ゴミを捨てる人も嫌だった。だけど、この前、急いでトイレに行った時に、自分が飲んでいたコーヒーをトイレに置き忘れてきてしまった。その時に思った。私がゴミだと思っていたものも、もしかしたら、誰かが急いで忘れてしまっただけなのかもしれない。これまでは、ゴミを見るだけで嫌な気分になった。だけど、自分が失敗をしてから、ゴミも、ゴミを捨てる人も、気にならなくなった。
高齢のおばあちゃんが、SNSで「最近の若者はスマホの見過ぎで深く考えることができなくなっている」と嘆いていた。私たちの時代は、もっと自分の頭で考えていた。それが生きる知恵になった。最近の若者は、ネットの情報をすぐに鵜呑みにするから心理操作もされやすい。このままだと日本が危ない。そんな嘆き方をしていた。言いたいことはわかるし、正論だ。正論は、自分や他人を苦しめる。自分の首を絞める。正論を突き詰めると、結局、人間が生まれたことに問題があることになる。人間を、許せない方向に着地をする。
人間が生まれたことではなく、スマホが作られたことではなく、許せない自分を許せないことに原因があるのだと思う。許せない自分を許せないから、他者を裁かずにはいられないのだと思う。本当は他者を差別している自分を認めないで「こうあるべき」を押し付けるから、衝突する。私ともあろうものが人間を差別するなんてあり得ないというプライドが邪魔をして、自分を正当化する。自分を正当化するほど、本当は差別している自分が曖昧になる。今のところは差別をしています。スマホを使う若者が嫌いです。これから若者のスマホを一台ずつ叩き壊しに行きます。それくらい言ったほうが筋が通る。自分はスマホを使ったまま他者のスマホを非難し続けたら、苦しくなる。
嫌われたら終わりではない。衝突したら終わりではない。嫌われることもできないこと、衝突することさえできなくなることが、本当の終わりだ。私たちは変わり得る。今は憎くてたまらない人とも、何かの拍子に「お前いいやつだな」となり、打ち解ける可能性がある。諦めるとは、変わり得る可能性を否定することだ。嫌いなものは嫌いなまま、一度嫌われたら、永遠に嫌われる人生を生きることだ。だが、現実は違う。人間は変わる。「いてもいいよ」と「いてはいけない」の差は、そこにあると思う。変わり得る可能性を認めること。今は嫌いなままでいい。今は差別をしたままでいい。ただ、自分も他人も変わり得るという可能性を忘れなければ、安心して、嫌われることができる。安心して、ぶつかり合うことができる。いてはいけないではなく、自分みたいな人間もいてもいいよと言ってくれ。お前みたいな人間もいてもいいよと言ってくれ。これから東京に行く。
おおまかな予定
11月21日(木)東京都渋谷区界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
いいなと思ったら応援しよう!




コメント