だけど、あの兵庫の知事選は、現代日本の知的退廃・文化の衰退を典型的に示すものとして注目すべきだとは思った。
例えば、「既得権層」対「改革派」とか、「若年層」対「老年層」とか、「保守」対「リベラル」だとか、スローガンは色々なんだけど、そのスローガンにほとんど意味がない。というか、言葉の意味も理解していない。立候補した人もほとんどの有権者も。それなのに、気分で投票する。「愛国的」と言いさえすえば、立派に思えるのと同じことで、その感覚的な罠にからめとられる。
だけど、その感覚を共有すると「立派に」なった気がするんだ。「改革派」で「若年層」で(似非)「保守」=(似非)「愛国」だから、偉くなった気がする。これは、邪悪(?)な「既得権層」や愚かな(?)リベラルが擁護する大衆よりも上に立って、政治を主導できる気がするのだ。ここで共有される高揚した意識こそが、ファシズムなのだろう(fascioは束、結束、団結の意味だ)。
プロパガンディストやデマゴーグ(扇動者)は、その連帯的な感情を上手く扇動する。そして、どうやったら扇動できるかについては、ヒトラーの『わが闘争』を読めばわかる。(すごい教科書だな!)
ここでは、憲法の精神に則っているとか、人権が擁護されるかとか、自由市場が有効に機能するかとか、生存権や財産権が保護されるか、なんてことは、どうでも良くなるのだ。選挙に勝って権力を掌握すればいいんだから。国家権力というのは軍隊から警察から貨幣発行権から徴税権から何でも牛耳っているから、何でも好きにできるようになるんだから。勝ちさえすればいい。という考えだな。
つまり、現在の日本の政治的風潮は、かつてのワイマール共和国で全権委任法が成立する前夜に似ている。たしかに代議制だな。民主制だな。代議制と民主制を主権者自身が、悪用・誤用するわけだ。なぜかといえば、代議制も民主制の意味も、その長所も欠点も理解していないんだから、ほとんどが。
そもそも改革派がパワハラやら恫喝まがいの嫌疑をかけられたり、公益通報者を保護しなかった嫌疑をかけられたり、どう考えてもありえないでしょ。
で、こういう「改革」(?)派の人たちの多くが、なぜか現政権に追従するか、似非「保守」なんだ。どこが改革なんだろ。左翼やリベラルが嫌いなら、「無政府資本主義者」になる道もあるはずだと思うんだが。あるいは小さな政府がお好みなら、リバタリアンになってもいい。しかし、ならないんだな。みんな似非「愛国」者を気取って、女性政治家は過去のフェミニストが勝ち取った被選挙権を使って立候補したり、婦人参政権を行使したりするが、そういう人が戸籍制度や家父長制を擁護したり夫婦別姓に反対したりする。そして、排外主義に走ったり、植民地主義の意味もわからずに歴史修正主義者になるんだな。
おかしな改革派が跋扈する日本の政治は、すぐにまた治安維持法下に戻るでしょう。また虐待と拷問と獄死の季節がやってくる。
人間は進歩しない。