【阪神再建に挑んだ男たち】「よき敗者」中西太、ブレイザー監督途中退陣…緊急避難で後任に

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★ベンチがアホ! は2度起きていた…

 1980年5月15日にブレイザー監督はファンの反発をうける形で辞任。即、中西太が監督に就任した。

 その年の10月7日の広島戦(広島)、2-2の八回一死一塁で、衣笠に四球を出して一、二塁。ベンチから出てきた藤江投手コーチが「大町と交代」を命じると、江本は「▼×★▼ッ」とかなりの発言。捕手若菜が「そんなこと言っちゃマズイよ」とあわてて止めたほど。それというのも、この試合に9年連続2桁勝利がかかっていた江本は若菜との作戦で「内角で併殺狙い。だめな場合は衣笠を歩かせて次打者デュプリーと勝負」としていたのだ。それをいきなり交代といわれて江本は逆上して…。

 これは球団が不問にしたが、とにかくエースと投手コーチの間はギクシャク。

 そして翌81年8月26日のヤクルト戦(甲子園)の八回-。阪神は4-1とリードしていたが、好投の江本は限界。それが中西-藤江には見抜けない。そのことに無性に腹がたっていた。ピンチがふくらみ続投…。結局、同点となった。ここは抑えの投入ではないか! ベンチと江本の意思の疎通は皆無…ベンチ手前でグラブを投げつけ…ロッカーの手前で「ベンチがアホッ!」。そのまま彼は任意引退となる。せっかく江夏豊と交換した投手もこんな形で阪神は失った。

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