SNSコミュニケーションの限界
Xでは発信者の心にないものを勝手にトッピングされがちで、それを強い確信とともに糾弾されるという、藁人形論法が起こりがちです。発信者が、誤解をうけてると知って正確な心情を可能な限り詳しく説明しても、言い訳するな!と余計に憤慨されてしまうケースもよく見ます。さらに批判を目的とした批判も次々とトッピングされ、批判の雪だるまの出来上がりという・・・なんかもう、手詰まり感が半端ないです。
人間、どうやっても読む人自身の色眼鏡が入るし、読む人は自分の掛けている眼鏡には気付きにくいので、自分の中にある悪意を相手の悪意と読み取りがちです。メガネをかけているのにメガネを探してしまうというのは、自分も含めたメガネ利用者あるあるですし。自分の眼鏡には気づきにくいものです。
この根本原因は、ただでさえ「テキストによるコミュニケーション」は「事象をテキスト化する高度な圧縮」が加わっているからだと考えています。この文章もまた、私の心象風景を文章という形に翻訳しているわけですが、必ずしも私の心を正確に翻訳できているとは限らないです。もうこのへんは、文字によるコミュニケーションというもの自体の限界だろうと思います。文字や文というツール自体が、必然的に非可逆圧縮ですから。
事象や心象A→(高度圧縮)→テキスト化→(解凍)→事象や心象A'
さらにそこに読解力の多様性が加わるので、もう、意図してない方向に飛んでいくのはある程度必然で。
実際、スレッズなら大丈夫かというと、インスタでは揉めてなかった人がスレッズに入るやいなや、唐突に仲悪くなっていたり、大炎上したり。別にXだけ民度が悪いとかそういう話ではないかもです。
「自分が相手だったら」と考えることが大切なのは幼少期に学ぶことで、それはできている人が多いのですが、さらにそこから一歩すすんで「でも相手は自分ではない」という自他境界を引かないと、テキストによるコミュニケーションは難しいものがあります。でもそれは、なかなかに難しいようで・・・自分もバイアスがないかといえば、どうしてもゼロにはできませんもんね。
ということで、SNSでいらぬ誤解が生じ、本来起こる必要のない衝突が生じるのは、「表情や声色を伝えがたい、文字を用いたSNSプラットフォーム」の根本的な限界で、要は「非可逆圧縮」に起因するんだろうなと考えています。
念の為、これは、誤解するのは悪くない!という主張ではありません。
いつも言っているように「心の中は自由ですが、それを表に出した時点で責任が発生する」ので、うっかり名誉毀損に発展する中傷をしないためには、どのような認知の歪みが生じているかを認識することは大事だよ、という話でした。
うーん。このnoteは、読者に誤解なく伝わるのであろうか(滝汗)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?



コメント