「なぜ独裁が生まれ、なぜ戦争を始めたのか」 ロシアの若者の問いに71歳が答える[2022/06/19 10:30]

https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000258454.html

「なぜロシアにはこんな独裁権力が生まれ、なぜ戦争などを始めてしまったのか? 30年前には予見できなかったのか? そして、これからロシアはどうなるのか?」

いまや世界中の若者たちが、こんな疑問を抱いていることだろう。
だがこの問いかけをしたのが、ロシアで暮らす若い世代だとしたら…

実はロシアの若者といえどもすべてが「洗脳」されたようにこの戦争を支持しているわけではない。
むしろインターネットを通して国内外の生の情報に触れ、しかも徴兵の可能性がある若い世代に厭戦気分は広がっていると言われている。
ただし、その考えを人前で口にすれば、刑法に触れる可能性があり、人びとは沈黙を強いられているのが現状だ。

冒頭の疑問は、ロシアのウェブサイト「ソタビジョン」の番組 「シトープロイスホージット(何が起きているのか)」(6月10日)で、アルチョーム・クリーゲルという20代の若きジャーナリストが、1951年生まれのベテラン、イーゴリ・ヤコベンコ氏(71)に、問いかけたものだ。

「ソタビジョン」は2015年12月に登録されたインターネットメディアで、今年2月にロシア政府から「外国エージェント」指定を受けた。
「外国エージェント」とは、海外からの資金援助などがあるメディアにロシア政府が貼り付けるレッテルで、外国人の購読者がいれば、少額の購読料であっても指定を受けてしまう。
指定されると「外国エージェント指定」の表示が義務づけられるため、政権への批判的姿勢を崩さないメディアへの圧力になっている。

だが「ソタビジョン」は「外国エージェント」に指定された後も、英語とロシア語でニュースを発信し続けている。

「ソタビジョン」では3月7日に7人のジャーナリストがモスクワの反戦集会をリポートしたとして逮捕されており、今回の対話に登場する「ソタビジョン」のジャーナリスト、アルチョーム・クリーゲル氏も3月18日、モスクワのスタジアムで9万人を集めて開催された「クリミア併合記念コンサート」の取材へ向かう途中、地下鉄の駅で警察に身柄を拘束された経験がある。

もう一人のイーゴリ・ヤコベンコ氏は経験豊かなジャーナリストで社会学者でもある。
モスクワの地下鉄建設現場で労働者として働きながらモスクワ大学哲学科夜間部を卒業し、ペレストロイカ(ソ連のゴルバチョフ政権が行った政治体制の改革)の時代にはモスクワ高等党学校で哲学を教え、1993年から2年間下院議員を務めた。
1990年代にはロシア・ジャーナリスト連盟理事を務めている。

以下は、その二人の対話を筆者(元ANNモスクワ支局長 武隈喜一)がまとめたものである。


◆ 1990年代にはこんな悪夢を予想できなかった

アルチョーム  わたしは若い世代なので1990年代をまったく知らない。一生をプーチン体制の下で生きてきた。1990年代のエリツィン時代には今日の悪夢のような状況を予想できたか?

ヤコベンコ  いや、予想できなかった。たしかにプーチン体制はエリツィン体制から生まれ出たものだ。1990年代の初期には、「上部構造」を変えなくても「下部構造」、経済さえ変えれば、つまり私有化を進めさえすれば、あとは「見えざる手」が市場を調整し、民主主義になっていくだろうと考えられていた。

1993年に採択されたロシア憲法は権力主義的なもので、大統領権限には制限がなかった。
だが当時は、「エリツィンは民主主義者だから人びとに自由な暮らしを保証するはずだ、すべては良くなるだろう」と考えられていた。

国営テレビは解体されなかったし、KGB(国家保安委員会、「FSB」連邦保安庁に改称)もそのまま残った。司法改革もなかった。
つまり、資本主義から全体主義に行かないように歯止めをかける予防措置が作られなかったのだ。この時点で、ロシアの民主主義への道は閉ざされてしまった。
だからと言って、いまのような全体主義的ファシズム体制になっていくだろうとは考えられなかった。
民族主義者が権力に着く可能性や共産主義者が再び権力の座につくのではないかという議論もあったが、1990年代にはその可能性はなかった。

当時は、KGBを土台とする今日のようなファシズム体制を見通せていなかった。
大統領後継者の選定についても厳格に法制化されていなかった。
現在のようなファシズム体制になったのは歴史の偶然の結果と言える。エリツィンが別の後継者を指名し、別の発展の仕方をすることもできたはずだ。

1999年に首相選出投票があった。プーチンは辛うじて必要な票数を取ったが、この時、敗れていればエリツィンは別の人間に差し替え、プーチンが首相や大統領になることはなかった。

プーチンは権力を取ってすぐに民主的な「独立テレビ」を解体した。
この情報戦争を始めたのもプーチン個人であって、システムの問題ではない。大部分のロシア国民がプーチン政権を支持しているのも、情報戦争の結果だ。
ロシア人の脳みそを叩き潰したこの情報戦争もプーチンが作り出したものだ。

◆ エリツィンは保身のためにプーチンを選んだ

<ロシアでは今年3月4日に、ロシア軍の活動についての報道や情報発信で当局が「フェイク」(偽情報)と断定した場合には、最大15年の禁錮刑を科す刑法改正を行った。
「軍事行動停止の呼びかけや軍の名誉、信頼を棄損する活動」も刑罰の対象だ。
この刑法改正によって、英国BBCや米国のブルームバーグなどは「通常の取材活動でさえもリスクがつきまとう」として取材活動を停止した。

ロシアの地上波テレビでは、この刑法改正前からすでに政権批判は不可能になっていたが、ロシアのネットメディアは刑法改正後も、当局の圧力にさらされるなか、工夫を重ねながら取材、発信作業をいまでも続けている。
VPN接続をしないとこうしたネットの情報にはアクセスできないため、主に若者層が受信者だと言われている>


アルチョーム  1990年代は映像でしか知らないが、映像からでも自由の空気が感じられる。自由な思想と自由な感覚だ。
新しいレストランやビジネスが開かれ、ロシアは国際社会に迎えられていて、おぞましい20世紀のことは忘れ、より良い未来が来る、という感じだ。
なぜエリツィンはプーチンを後継者に選んだのか? 

ヤコベンコ  確かに1990年代は自由の時代だった。だが、一方で国民の窮乏化も進んだ。ルーブルが下落し、改革はショック療法と呼ばれた。

1996年、ほとんど職務遂行能力を失っていたエリツィンが大統領に再選されたが、この時にはメディアが総動員されて、ロシアの有権者を洗脳しようとした。
しかしこの頃、国民は、メディアはそれほど信用できるものではないと思うようになっていた。だから2000年にプーチンが大統領になって民主的なメディアの弾圧を始めても、反対の声を上げる国民は多くなかった。
「民主主義」という言葉はすでにエリツィン時代に「罵り言葉」になっていた。

1996年にエリツィンを再選させた有力者たちは、自分たちの安全をどうにかして確保することだけを考えていた。
エリツィンの家族やアブラモビッチ(「石油王」と呼ばれる実業家)、チュバイス(元大統領府長官)といったオリガルヒ(新興財閥)だ。

プーチン政権の汚職と腐敗の源流はエリツィン時代にある。
億万長者になった者たちは権力移行に際して安全の保証を求めた。信頼できる人物を選ぶ必要があった。
ネムツォフという若い有力政治家がいたが、不正や犯罪に目をつぶるような人間ではなかったため、彼らにとっては「信頼できる」人物ではなかった。
ネムツォフは盗人や犯罪者の身の安全を国民の利益より重視するような政治家でなかったため、大統領候補としては「失格」だった。

エリツィンにとっては、パッとしない、誰の利益代表でもなく、ドレスデンでシュタージ(東ドイツの秘密警察)の助けを借りてスパイのリクルートに励んでいた小柄な元KGB中佐なら、大統領にしてやったことに感謝して、オモチャのように自分の言うことを聞くだろうと考えたのだ。

ところがこの男が、どこかの時点で常軌を逸し、世界の支配者だと勘違いしてこんなことを始めてしまった。

ロシアが繁栄する資本主義国家になるための可能性は、1990年代初頭にすでに閉じられてしまっていたとしても、ファシズム国家になる可能性は、1999年の首相を選ぶ選挙でプーチンに投票しなければ、潰せていたはずだ。
あの時点が引き返せる最後のポイントだった。首相選出選挙という小さなきっかけが権威主義的な体制を生んでしまった。
プーチンとは別の人間が首相になり大統領になっていたら、現在のようにロシアが孤立し、戦争を始めることはなかったと確信している。

◆ プーチンが「帝国シンドローム」を呼び覚ました

アルチョーム  1999年8月9日にプーチンが首相になり、その年の大晦日、エリツィンが、自分は辞任しプーチンを大統領代行とすると演説した。2000年3月、大統領選挙でプーチンが勝ち大統領となった。
なぜロシア国民はプーチンに投票したのか? 
「自由も悪くないが、エリツィンは酔っ払いで足元も覚束ない。それに比べれば、元KGBだろうが、プーチンは自信に満ちていて素面でまっすぐだ。この男に強い力を与えて秩序を回復してもらおう」ということだったのか。

ヤコベンコ  当時、市場や民主主義はさんざん悪口を言われていた。1990年代末にはデフォルト(債務不履行)が起きて、たくさんの企業がつぶれ、人びとの生活はさらに貧しくなった。科学や学問には予算がつかず、研究機関などはどこも私企業に建物を身売りするほどだった。
自由はあったが、「言論の自由」という意味では質の高いプルラリズム(多元主義)はなかった。
複数のテレビを見ることはできたが、民間テレビにもタブーがあり、たとえばモスクワ市長のルシコフを批判することはタブーだった。

ロシアとロシア人が抱える問題は、自分たちの意識の中にある「帝国シンドローム」だ。「ロシアは常に帝国であって、世界の一番上に位置する」という意識だ。
ピョートル大帝が帝国を作り、ソ連時代も別の形で帝国が続いた。
「帝国シンドローム」とは「ロシアは世界の支配者であり、他の民族はわれわれの前に頭を下げるべきだ」という意識だ。

この「帝国シンドローム」は1990年代には眠っていた。死んでしまったわけではなくて眠っていた。
眠りの中でいびきをかくことも夢を見ることもあったが、ゴルバチョフの時から、この帝国シンドロームは眠りについていた。

ベルリンの壁の崩壊を認めたのはゴルバチョフだが、一時的に「帝国としてのロシア」は凍結された。これはゴルバチョフの功績だった。
共産主義の世界システムは崩壊し、ワルシャワ条約機構は解体され、ソ連は崩れ去った。
「帝国シンドローム」は死んだわけではないが、眠りについた。
そしてロシアがソ連の後継国となり、核兵器ごと引き継ぎ、国連安保理常任理事国の座を引き継いだことによって、ロシアはソ連から「帝国シンドローム」をも引き継いだのだ。独立国となった他の14の共和国には「帝国シンドローム」は残らなかった。

プーチンはこの眠っていた「帝国シンドローム」を目覚めさせたのだ。
プーチンはヒトラーやスターリンにもなかった「意識の情報化」をおこない、この「帝国シンドローム」を、一見普通に見える人間、子供もかわいがるし、猫だって大事にする普通の人間が、この悪夢のような戦争を支持する、というシステムを作り上げてしまったのだ。

足を切断されても、その部分に、あたかも足がそこにあるような痛みを感じる「幻痛」のようなもので、この全体主義的プロパガンダによって、ロシア人は「帝国シンドローム」の「切断されたウクライナ」の痛みを感じているのだ。
これはすべて幻痛だ。全体主義的プロパガンダがこの幻痛を強め、まだ癒えていない傷を掻きむしり、マスヒステリーの状態になってしまっているのだ。

これはプーチンの頭の中にあり、テレビにあり、大部分のロシア人にある。全員ではない。だが3割くらいの人びとがこの「帝国シンドローム」で強く病んでいるのではないだろうか。
プーチンが「特別軍事作戦」の支持を得るには十分だ。