不自由を求めスタバや図書館へ

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スタバで勉強する人というのは、不自由を求めているわけである。周囲に他人がいて、遊び道具も無ければ、勉強に集中できる。図書館の机も、そういう連中に占拠されている。自宅だと遊んでしまうわけだ。それでは、そんなに遊びが好きなのかというと、たぶんそうではない。さして遊びたくはないが、自宅だと怠惰になってしまう。こう考えると、自由というのは、蚊に刺されたところが痒いから掻いてしまうという類のものに思える。自宅だとゲームで遊んでしまうとして、何が何でもゲームをやりたいというよりは、痒いから掻いてしまうだけである。たとえば「豪邸ですごい美人とワインを飲みながら遊興する」という遊びではなく、貧相な自宅を見回して、とりあえず手に取るのがゲームである。つまり自らが望んだことを何でもできる遊びではなく、とりあえず何も無いからゲームという生活の貧困である。そしてそれが人生の通例だから、自由は痒い。もし、何が何でもゲームをやりたいという情熱があるのなら、それは「痒み」とは違うであろうし、究極の欲望であるが、たいていは、人生で一番やりたいことがゲームというのではなく、消極的な選択としてゲームをやる。さて、ともかくスタバで勉強するのは、他人の目があるからである。他者に監視された囚人である。そして、そこだと不思議と痒みがないので、快適なのである。自宅では自由という名前の痒みが襲ってきてゲームなどで気を紛らす必要があるが、スタバならそれはない。人間は労働しないと暇人となり、暇人はろくなことをしないという意見があるが、必要なのは労働ではなく、他人の目かもしれないのである。遊んでいたら場違いになるような目である。たとえば中学とか高校のクラスの休み時間に勉強するとなると、そういう目で見られないから、他人の目であれば何でもいいわけではない。その学校の偏差値によって温度差はあるにしても、基本的には「他人の目線」がない甘えの空間であるから、スタバではない。学校のクラスだと第三者の目線がないから痒みが襲ってきて馬鹿なことをやってしまう。こう考えてくると、第三者の目線は自由という痒みを消すために、とてもありがたいものであり、たとえば駅の待合室で待っている人も、電車を待っているのではなく、見知らぬ他人がいる状態で資格の勉強でもしていたりするのかもしれない。
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