『勤労』とおなじように、憲法で『出産』が義務化された社会

出産の自由意志という『最後の一線』

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少子化という現象は、資本と国家が最後の一線を越えて人間性を蹂躙するに至っておらず、世代の再生産に関する意思決定の自由がわれわれの手元にあることの証なのである。

少子化を資本主義への抵抗運動とみなし語る論文を読み感銘を受けた。

しかし同時にこの論文が危惧する「最後の一線」はいとも容易く踏み越えられ、世代再生産の意思決定権が私たち個人から国家や資本の側に移る可能性はすでに十二分にあるだろうとも感じてしまった。


個人の自由意思は『勤労』の領域でとっくのむかしから侵害されまくっている

結婚出産はいまのところ国民の義務ではないけれど、日本国憲法が規定する国民の三大義務「勤労/納税/教育」に勤労が入っている事を考えれば、これも絶対不可侵領域なわけではないことに思いが至る。

現在、結婚出産が個人の自由意思とされているのは、国家は個人に介入しないという自由主義個人主義の原則をタテマエとしている。結婚出産は個人の人生を左右する一大事であり、その意思決定に介入することは何者にも、国家にさえ許されない暴力行為というわけだ。

しかし個人の自由意思が国家により侵害されている領域はすでに存在する。「勤労」がまさしくそれである。

憲法で明文化されているのみならず、現代資本主義社会で生存するために必要な「カネ」は、ほぼほぼ勤労からしか得ることができない。この事実を人質とした強制力が、個人に「働かない」という選択肢をえらぶことを実質的に許容しない*1。勤労もまた個人の人生を左右する非常に重要な一大事であるにも関わらず、だ。自由主義の原則は、勤労という領域ではとっくのむかしから侵害されまくっているのである。出産が同様の扱いとならない保障はない。


自由主義国家でも、国家が滅亡しかねない要素は義務化される

「勤労/納税/教育」が国民の三大義務とされているのは、いくら自由主義国家とはいえ最低限これだけは国民さまにやっていただかないと、国家が滅亡するからだろう。

結婚はともかく出産もまた、国民多数にボイコットされれば国家滅亡に至る要素のひとつである。ではなぜ出産が国民の義務化されていないのかといえば、単に日本国憲法が創設された1945年当時、放っておいても1人の女性から3人4人子どもが産まれるのは当たり前であり、国民が子どもを産まなくなるという事態が想像の範囲外だったからだろう。「自殺」もまた国家を滅ぼしかねない個人行動のひとつであるが、それが脅威となる事態は現代社会ではいまのところ想定されておらず、憲法で義務化もされていないのと同じように*2


しかしそれから80年。発展した個人主義社会で人間を放置していると、人類は出産をサボりはじめることが誰の目にも明らかになってしまった。となれば国家として考えるのは当然、「出産の義務化」だろう。


私は自由を愛する個人主義者なので出産どころか勤労の義務にすら反対で、働きたい人だけが勝手に働き、産みたい人だけが勝手に産んでりゃいいんじゃねーの?それで滅びるなら国家は人類から望まれていない「いらない子」ってことなんじゃねーの?と考えているけれど、国家の立場としては義務化しない道理もない。いま、国家は出産を義務化したくてしたくてウズウズしているハズである。


出産が義務化された社会、その先

とはいえ義務化が悪い面ばかりというわけでもない。勤労は国民の義務ではあるが、義務であるがゆえに国家によるサポートが最も手厚く行われる分野でもある。失業に対してはハローワークがあるし、勤労可能な社会人を作り上げるための公教育も存在する。

これと同じように結婚出産が義務化されれば、これを遂行するための国家によるサポートも充実するハズである*3。義務教育の段階から性教育が盛んになり、国営結婚相談所やマチアプ的なものも大手を振って運営されるようになるだろう。モテ教育と称し異性を魅了する技術も義務教育で教えられるようになるかも知れない。勤労の義務を遂行可能な人間を作り上げるため、子供たちに勉強を教えるのと同じように。

この結婚出産が義務化されたパターナルな社会と、現在の自由だが弱肉強食婚活ジャングルとどちらが個人にとって幸せなのか、私にはわからない。


…と書いてはみたものの、↑に書いたような七面倒くさい社会変革が進むより先に、人工子宮や体外受精など生殖技術の発展により、なし崩し的に世代再生産の場としての家族が解体される日の方が先にやってくるのではないかと私は予想している。国家と資本が必要としているのはあくまで労働力としての個人であり、その個人がどのような場所から生産されてこようと彼らには関係のない話なのだから。

さらに言うなれば「労働力」は人間である必要すらない。労働力のAI化ロボット化が進み、国家と資本が人間を必要としなくなった社会、人間の再生産を必要としなくなった社会。それこそが資本主義社会究極の完成形、「人間から自立した資本主義社会」なのかも知れない。

…冒頭の論文が批判していたものが、まさしくそれなわけであるが。

資本主義の危機としての少子化
人間は国家および資本主義の存続のために生きているわけではない。したがって、最も重要なことは、国家と資本に対する人間の生命の外部性を守ることであり、自由を守ることである。

*1:認められる自由はせいぜい「職業選択の自由」までであり、結婚出産のように「しない」自由は認められていない。

*2:逆にいえば勤労は義務化しないとみんなサボりまくると思われている。

*3:されなかったら日本、なかなかひどい。