「巨人以外には行きません」と言っていた仲田幸司を獲得できた83年ドラフト…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<29>

阪神・仲田浩二(左から山田勝彦、仲田、トーマス・オマリー、久慈照嘉)(1992年9月22日・東京ドームでの巨人戦)
阪神・仲田浩二(左から山田勝彦、仲田、トーマス・オマリー、久慈照嘉)(1992年9月22日・東京ドームでの巨人戦)

 中西球道(清起)と池田親興。前回は1983年のドラフト会議の1位と2位の投手のことを書きました。今回は、その時に触れられなかったもう1人の投手の思い出を―。あの年のドラフト3位、仲田幸司。ちょっと間違っていたら、阪神に入っていなかったかもしれない投手です。

 1983年のドラフト会議。1、2位を順調に指名した我が軍ですが、3位の指名で慌ただしくなりました。地元、市立尼崎高校の池山隆寛内野手を指名する予定だったのですが、直前の2位でヤクルトが巨人、近鉄との争奪戦の末、池山の交渉権を獲得しました。

 3位指名するはずの選手が直前でさらわれ、スカウト連中は大慌て。で、指名候補リストを再チェックしました。その時、1人の高校生左腕の名前が私の目に留まりました。「これいけるんじゃないか?」と指を指しました。それが沖縄・興南高校の仲田です。オーバースローの左腕の本格派。「将来は巨人・新浦(寿夫)のような投手に」という期待がありました。

 しかし、スカウトは渋い顔です。「監督、だめです。仲田は巨人希望が強くて…」。11球団に「巨人以外には行きません」という内容証明付きの手紙も出していました。スカウトには5年前のドラフトで1位に指名しながら、大騒動の末に巨人に入団した江川卓投手のことも頭にあったようです。

 ドラフト会議場で私とスカウト連中が額を付き合わせて臨時会議。私は「ダメ元でいいから、指名しようよ。来てくれなかったら、その時は俺が責任を負うから」とスカウト連中を説き伏せ、指名にこぎつけました。私には「プロを志望している選手なら希望球団でなくても、誠心誠意交渉すれば来てくれるはず」という思いがありました。かつて、巨人希望が強かった田淵幸一君が来てくれたように。交渉の過程はよくわかりませんが、仲田はうちに入団しました。私にとっては、印象に残るドラフト会議になりました。

 左腕と言えば、もう1人印象に残る投手がいます。山本和行投手です。監督時代に本格的に抑えに回ってもらい、82、84年の2度も「最優秀救援投手」(セーブ数と救援勝利数を合わせた数字で争う)になった名投手です。

 そんな彼が初めて「最優秀救援投手」に輝いた82年のオフ、私のところに「メジャーに行きたい」と言ってきました。私は彼のその後の人生のために阪神に残るように説得しました。「向こうに行って抑えをやったら、それこそ毎日投げさせられるぞ」「ボロボロになって帰って来ても、面倒を見てくれる球団はないよ」「阪神に残った方が安心だと思うが」などと、理由を挙げて説得しました。野茂英雄君が大騒動の末に海を渡る10年以上も前のことです。

 今考えると「あの時は彼のやりたいようにさせてやれなかった。意思を封じ込んでしまったな」という悔いが強く、山本和行には悪いことをしてしまったという思いがあります。

 それほど有能な投手でしたから、他球団からトレードの打診もありました。南海・穴吹義雄監督から「山本和行をくれないか? 門田(博光)を出すから」とお願いされたのは山本和行のメジャー志願が一段落した後でした。門田と言えばパ・リーグのホームラン王。私の頭にはかつての小山正明さんと山内一弘さんの世紀の大トレードが浮かびましたよ。どう返事したかって? 即座に断りましたよ。結局、山本和行はその後も阪神で投げ続けて、17年の現役生活を終えました。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は4月1日正午配信予定。

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