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私の防衛戦――『情況』編集部に三たび問う

【評論】小峰ひずみ

Ⅰ 攻撃と防衛

 小峰ひずみという筆名の「ひずみ」の由来は何かとよく聞かれる。これは雑誌『噂の真相』の匿名エッセイ「撃」からとられたものだ。このエッセイの筆者は「鵠(くぐい)」と「歪(ひずみ)」である。私の筆名は後者を継承したものだ。「小峰くぐい」でもよかったのだが、読みにくい。だから、「ひずみ」で行こうと決めた……というのは嘘で、私は勘違いをしていて、エッセイの筆者は「歪」と「撃」だと思っていた。本来はエッセイ「撃」の筆者が「歪」と「鵠」であるところを、誤って、エッセイ「非国民手帖」の筆者が「歪」と「撃」であると記憶していたのである。「鵠」は記憶からすっぽり抜け落ちていた。だから、私の意識としては、「歪」は裏を返せば「撃」になる。そういうつもりで選んだ。そして、賞を取ってから、久々に『非国民手帖』を手に取り、痛恨のミスを犯したことに気づいた。「歪」の裏は「鵠」である。白鳥という意味だ。
 それはともかく、私のとんまな世界では「歪」は裏を返せば「撃」になる。「攻撃」のゲキだ。私は攻撃的であるとよく言われる。しかし、私のとんまな世界では違う。私はつねに防衛戦を敢行しているつもりだ。人は無意識に政治運動や活動家といった秩序逸脱者を「異常」とあげつらい攻撃する。いや、あげつらいもしない。そのような存在が「異常」であることを前提にして論が立てられる。前提レベルを「言うまでもない」と無言で覆い隠す攻撃に対して、防衛はその大前提をあげつらわねばならない。だから、私はいつもこう言って相手への反論を繰り出す。「そもそも……」「大前提として……」。
 論理学の基本は三段論法だ。三段論法は次のように進む。

大前提:(人間は死ぬ)←ここは言及されない
小前提:ソクラテスは人間である、
結論:だから、ソクラテスは死ぬ。

 その論理には瞬発的にこう答えねばならない。「いや、違う。そもそも、大前提として、人間は死なないのだ(ここまでは無条件に一言で言い切る)」。はったりである。ここでようやく思考する。「ところで、人間とは、そして、死とは何ぞや……(あとはご自由に)」。そう入らねばならない。相手は大前提を隠そうとするから、ここをあげつらう。絶対に小前提と結論に持ち込ませてはならない。ここに入れば、必ずや防衛線は突破される。だから、思考するタイミングがポイントである。タイミングを誤れば、防衛戦は敢行できない。
 いま手元にないのだが、綿野恵太氏の「ひろゆきに論破されてみた件」(『新潮』2024年9月号)には、氏が論破王(?)であるひろゆき氏とどう対峙したかが書かれている。むろん、論考の題にある通り、綿野氏はひろゆきに「論破」されている。しかし重要なのは勝った負けたではない。綿野氏はひろゆき氏に論破される際の、自分の思考過程を克明に描いているのだ。たしか、ひろゆき氏に意表を突くようなことを言われ、「この人は何を言っているんだ……?」と「大前提」の相違について考え込んでいるうちに、あれよあれよと議論が進んでしまった、という記述だったように記憶している。綿野氏はその過程をドキュメントとして残すことで、私たちに大きな示唆を与えた。戦史である。
 このように相手との議論を「論戦」として描くことに抵抗を覚える人もいるだろう。論戦から対話へ、と人は言う。百も承知である。しかし、安心して対話を行うためには、どれほどの「論戦」を行わなければならないか。指導教員で哲学対話の実践者であるほんまなほに、学生時代の私はいつも糾弾されていた。哲学対話の最中に、である。学生からは「ほんまに詰められている人」として覚えられていたくらいだ。いまになれば、ほんまが対話の場を何から守ろうとしていたのかわかる。だから、防衛戦はしない方がいいし、したくもないのだが、せざるをえないものである。
 ほんまは、意見の相違は前提の相違に由来する、と私に教えた。対話は前提の相違を確認するのだ、と。私はその対話から論戦を学んだ。上記の論理に従えば、論戦では「大前提」を死守しなければならない。だから、相手の小前提と結論を無視して、「そもそも」「大前提として」と突っ込む。大前提を戦場にする。やっかいだ。奇襲である。私の防衛は、相手の「論陣」でのみ行われる。これはテロリズムに見えるらしい。
 当然だ。大前提が相手に占領されているのだから、その大前提を奪い返そうとする奇襲はいつだって防衛戦だ。その防衛のために「批評」という伝統を選んだ。その伝統くらいしか、ちゃぶ台返しのような複雑な言語操作を許してくれる言論空間は、もう存在しないと思えたからだ。たとえば、拙著『平成転向論』の冒頭は「論駁」の擁護で始まる。これは防衛の基本的なスタイルだ。あるSEALDsのメンバーと直接話していて「そっちから先に仕掛けて(批判して)きたんだ」と言われたが、そのはずはない。SEALDsはラディカルな政治運動を「安易な革命」と形容し、知識人が私や私の友人たちを「非健康」(『悪口論』の小熊英二批判を参照)と罵ったことに同調し、その大前提に拠って立って運動論を組み立てた。だから、こっちはこっちで防衛(反批判)したんじゃないか。ポリティカル・コレクトネスも、ラディカリズムも、『平成転向論』も、『悪口論』も、ぜんぶ防衛戦だ。こんなのが攻撃なわけがあるか。それは「攻撃」を愚弄しているというものだ。
 今回の『情況』討論会への抗議文も、この「大前提」を奇襲している。だから、多くの人が怒っているらしい。小峰が『情況』を「卑劣だ」と攻撃し、議論を「破壊」すると宣言したと思っているらしい(大野左紀子のポスト 2024年11月9日)。しかし、討論会の条件設定者は主催者で、討論会の九割方をコントロールするのは主催者だ。ならば、その主催者に「卑劣だ」と罵ることくらいは許されよう。というよりも、そうでもしなければ、どうやってあの状況をひっくり返せるのか。どうやって私は私の身を守るのか。大前提への奇襲はいつだって「異常」「逸脱」のような形でパージされる。その構造を形容するには「卑劣だ」という言葉が必要だ。その言葉さえ奪われれば、いったい、言葉に何ができよう? 私は私を防衛するために「批評」という伝統を選んだのであって、だから、私の批評は「卑劣」という罵倒とともにある。

Ⅱ 『情況』編集部に問う

 さて、『情況』編集部は私を「深掘りトーク 『情況』2024年夏号」から降板させると決定した。塩野谷氏には「私はある一定の条件下では討論会を妨害するつもりだから、降板でもかまいません」と言ったのも事実なので、いまさら抗議も何もない。「降板させるならしろ」と言ったのだから、「降板して」と言われれば、「はい、わかりました」と言うしかない。また、謝罪もあった。三十年ほど前の批評家なら「マジで降板しやがったな」と怒るのだろうか? そういう点では、現代っ子に批評家は務まらないのかもしれない。ただ、いくつか疑義は呈しておく。

①    まず私は登壇するつもりでいた。そして、私が登壇していてもイベントも議論も成り立っていたはずである。むろん、議題は変わるだろう。拙稿は「議論」が成り立たないことを前提としていたので、この「議論」が成り立たないことを議題としてもよかったはずである。というよりも、そうすべきである。観衆のいくらかも、そのような展開を望んでいたのではないか。そして、トランス当事者やトランスジェンダーアライの人があまり会場に参加しないのはわかりきっているのだから、私はほとんど孤立した状態に置かれるはずであった。私は「それでもいい」と言っていたわけである。その私をなぜ降板させたのか。
②    ①からかんがみるに、『情況』編集部は拙稿を「取るに足らない」「議論に値せず」と判断したように思う。しかし、「取るに足らない」と判断した理由が分からない。反論文が書かれるべきであった。むろん、『情況』編集部は忙しいかもしれない。しかし、それが『情況』編集部の名義である以上は、代理人の筆でもかまわなかった。なぜその煩をとることを怠ったのか。
③    私はそれなりの労力や時間を割いて『情況』編集部を批判した。それに対して上記のような対応を以て返すのは不義理ではないのか。

 とはいえ、謝罪があり、また「別の機会にお話しすることになる」(2024年11月11日のポスト)とのことだから、何らか返答される機会はあるのだろう。

Ⅲ 批判者に答える

 拙稿への批判に答えておく。
〇登壇者・谷口一平氏からの批判は次のようなものであった。

(前略)「谷口をトランスヘイターだと思う」と「谷口はトランスヘイターだと目されている」の違いもわからないんですか。前者は小峰さんの判断ですが、後者は事実問題であり風説に責任転嫁する低劣な態度ですよ。引っ張り出せないなら、あなたはただの「嘘つき」です。(2024年11月8日のポスト)

 前者の判断は拙稿で記載した理由で行わなかった(第七節)。後者の批判は正当であるように見える。しかし、「風説」について議論する資格がないというのが拙稿の主張なので的外れである。私は谷口氏をトランスヘイターだとは言っていない。トランスヘイターだと目されており、そして、氏がヘイターかどうか公に議論する資格を私は有していないと述べたにとどまる。これが「低劣な態度」に見えるのは承知している。しかし、討論会そのものが「卑劣」な条件設定であった以上、この「低劣な態度」は論理的に導かれたものである。その証明は拙稿第七節にて行っている。したがって、私が立証すべきは「谷口一平氏がトランスヘイターと目されている」という部分である。
 谷口氏は『精神科学』に寄稿した論文が査読段階で落とされ、その理由を公に公表しているが(2023年12月25日のポスト)、本件の立証についてはその査読理由に拠れば足る。すなわち、「本論文[谷口論文――小峰]は全体として中立的に、ただ哲学的問題を論じるだけであるかのようなスタンスで書かれていますが、実際には、トランスジェンダーの人々に対して中立的であるとはまったく言えないものです」「本論文は、中立を装いつつも実質的には、トランスジェンダーの人々の議論を一切考慮することなしに、トランスジェンダーに懐疑的な人々によくある考えをただ前提する、あるいは追認するものになっています」という記述からかんがみるに、査読者たちは谷口氏をヘイター(トランスジェンダーに懐疑的な人々)の一員であると考えているのは明白である。

小峰さんは「私たちの言説」にそもそも言及がないどころか、事実問題に関して例示も引証もなく「風説の流布」を行なっているのです。なんの根拠もなく他人を「悪人と目されている」とか「馬鹿と目されている」とか書いた文章を公開して、それで済むと思っているのですか。(2024年11月8日のポスト)

 前提とすべき「風説」が存在していることは前節で証明した。しかし、その「風説」の存在を指摘するにとどめており、また、その指摘は立論上必須である。加えて、私がその「風説」を積極的に「流布」した事実はない。あくまで立論上の指摘にとどまる。
 次に、「馬鹿」や「悪人」と、「ヘイター」についての記載だが、両者は異なる概念である。「馬鹿」は能力に、「悪人」は人格にその原因が帰せられる。対して、「ヘイター」は当人の言動にその原因が帰せられる。したがって、氏の列挙は不当である。

〇匿名氏からの批判に答える。
ある人から批判が来た。それは公ではなく私的なやり取りでの批判だったから名前を公表するのは控えておく。その批判は次のようなものであった。
 
「あなたはあるサークルがLGBTQに差別的な会合を開いていても、「議論する資格はない」と批判を展開しないのか?」
 
前提として、私は「当事者の声を公で代弁することそのものが、当事者の意思を尊重しない行為だ。ゆえに、代弁してはならない」と考えている。その上で、公的な場(誰もがアクセスできる場)と私的な場(アクセスに何らかの制限がかかる場)でのふるまいを分けるべきだと考える。むろん、私も私的な場では「それは差別ではないのか?」と指摘し、それが差別であることを証明しようとする。そのときは相手の話も聴くだろう。しかし、公的な場では、それを行う資格はないと考えている。

Ⅳ 左翼の攻撃について

 いずれにせよ、本討論会における私の立場表明は防衛のためになされている。むろん、防衛は危うい言葉だ。すべての攻撃は「防衛」の名の下になされるからだ。しかし、大前提の占領に対して異議を申し立てることは、それがいくら「攻撃」的に見えようと、やはり「防衛」である、と私は考える。今回の一連の抗議は、権利擁護を重視するリベラル派や左派に対してしばしばなされる批判に対する「防衛」であった。この防衛戦はいつ終わるのか。「何人にも権利がある」というフランス革命やアメリカ革命で宣言された大前提が、その論戦において確立されたときこそ、左派とリベラル派が共闘する防衛戦が終結する瞬間である。そこは同時に、その論戦以降に両者が完璧に分かたれる瞬間でもある。ここでリベラル派はふたたび「防衛」に回り、左翼は「攻撃」に転じる。
 では、「左翼」の攻撃とは何か。
 むろん、所有関係に手を付けることである。
 それは現段階においては、法に手を付けることを意味する。具体的には、民事法(民法・民事訴訟法・会社法・商法)に手を付けることだ。それらが市民(法人)間の関係性を規律するものだからだ。それをマルクス主義者たちは「プロレタリアート独裁」と呼んだ。しかし、その文言は党が独裁=執政を担うべきだという風に解釈された。私が学んできたマルクス主義は違う。それは法律関係を抜本的に改変することを意味する(だから、エンゲルスは議会主義を選んだ)。そして、単純に言えば、民法改正は憲法改正よりも簡単である(最近の大改正は、たしか、2017年度だったはずだ)。
 資本主義下の権利とは「(手段として)搾取される権利」に他ならない。左翼はこのように看破した。そして、この大前提の下にすべての立論を検討する。攻撃とは、大前提を占領することである。ならば「左翼」の攻撃とは、「何人にも権利がある」という大前提に、「何人も人格(目的)として扱われるべきである」という大前提を対置することだ。その大前提は体制に大きな変更を強いる。この大前提の確立こそが「攻撃」である。それは一般に「革命」と呼ばれている。
 資本主義が永遠に続くのは必然であるという哲学者の俗論を信じる必要はない。なぜなら、資本主義の基礎となる所有関係は、法によって規定されているからだ。法があるということは、それを書き換え、解釈することができる、ということである。当たり前のことだ。むろん、共産主義者による書き換えが悲惨な末路を歩んだことは言うまでもない。しかし、一度は、書き換えられたことがあるのだ(ソヴィエト法)。それが「左翼」の攻撃に他ならない。その歴史が、「左翼」がいつか攻撃に転じうると信じる、十全たる根拠である。

▶小峰ひずみ 1993年生 大阪大学文学部卒 「平成転向論 鷲田清一をめぐって」で第六十五回群像新人評論賞優秀作。著書に『平成転向論 SEALDs/鷲田清一/谷川雁』(22年5月)、評論に「人民武装論 RHYMESTERを中心に」(『ことばと』vol.6、22年10月)、「大阪(弁)の反逆 お笑いとポピュリズム」(『群像』、23年3月)、「議会戦術論 安倍晋三の答弁を論ず」(『群像』24年7月)がある。24年8月に『悪口論 脅しと嘲笑に対抗する技術』を刊行。

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