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織田信行の歴史
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織田信行の歴史 織田信行の歴史
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「織田信長」と言えば、圧倒的な力で「天下布武」(てんかふぶ:武力で天下を統一すること)を達成したイメージが強い武将です。しかし戦国武将として台頭するまでに苦戦していた時期もありました。そして、織田信長を長年苦しめていたのが実の弟である「織田信行」(おだのぶゆき)です。当初は兄弟で協力して領地経営をしていた2人ですが、次第に織田家の当主争いが勃発し、熾烈な戦いへと発展していくことに。今回は、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも織田信長との兄弟バトルが話題となった織田信行について紹介します。

兄と争い、この世を去った織田信行の生涯

織田信行の名前と織田家の背景

織田信行

織田信行

織田信行は兄である織田信長が生まれてからすぐ、同母である「土田御前」(どたごぜん・つちだごぜん)の子として誕生しました。

生まれた年は不明となっていますが、織田信長が生まれた1534年(天文3年)の2年後である1536年(天文5年)であるという説が強力です。

幼名においても不明ですが、当時の史料によると織田信行は「勘十郎」という通称で呼ばれていました。

江戸時代の系図類では「信行」と記載され、一般的にも信行として知られています。

しかし、大河ドラマ「麒麟がくる」では「織田信勝」の名で登場しました。

さらに織田信行は、織田信勝以外にも史料内で、「織田達成」、「織田信成」などと記されていることもあり、実は織田信行の正式な実名は判明していません。

織田信長と織田信行の父である「織田信秀」(おだのぶひで)は、尾張国(現在の愛知県西部)守護代の清州織田家に仕えており、重臣の「清州三奉行」の一家である「織田弾正忠家」(おだだんじょうのじょうけ)を称した家系の当主でした。

戦国期において織田信秀は、守護代の清州織田家をも凌ぐ勢いを見せ始め、尾張国での支配を拡大させます。

そんななか、1549年(天文18年)に美濃国(現在の岐阜県南部)の「斎藤道三」(さいとうどうさん)の娘と織田信長が政略結婚をしたことで、織田信長も政務を担うように。そして、父の織田信秀が病に伏せるようになると、織田信長とともに織田信行も領地経営を行うようになっていったのです。

織田弾正忠家当主を巡り、兄の織田信長と対立

1552年(天文21年)に父の織田信秀が亡くなると、この葬儀で兄弟は対照的な態度を見せます。兄の織田信長が仏前に抹香(まっこう)を投げ付けたのに対し、織田信行は服装や礼儀に気を付けて真面目に向き合っていました。

このように、日頃から「うつけ」と呼ばれていた不行儀な兄とは違い、品行方正な織田信行に対して「兄よりも当主に向いているのではないか?」という気持ちを抱く者が増えていったのです。

しかし、兄である織田信長は家督を継承し、織田弾正忠家の勢力拡大に向けて動き始めます。一方、織田信行も居城である「末森城」(愛知県名古屋市千種区)を継承し、織田家の重臣である「柴田勝家」(しばたかついえ)なども自身の家臣に付けました。

当初は、すでに領地経営を行っていた織田信長とともに、織田信行も協力して政務を行っていましたが、次第に両者は独自的に行動するように。

そして、1553年(天文22年)に織田信行は兄に無断で文書を発行し、「弾正忠」の官職を勝手に名乗ることで、当主は自分であると主張し始めます。こうして、織田信行は自身に心を寄せてくれている家臣とともに、当主の座を巡って兄と真っ向から対立する選択をしたのです。

兄に敵意を抱き続けた織田信行の最期

織田信行が兄に対抗して勢力を伸ばす一方で、織田信長は尾張守護を味方に付けて、尾張守護代の清州織田家を滅亡させます。しかし、1556年(弘治2年)に後ろ盾となっていた斎藤道三が亡くなったことで、織田信長は窮地に立たされることに。

契機を逃すまいと、織田信行は重臣らとともに反旗を翻し、ついに両者は稲生(現在の名古屋市西区)で激突します。この「稲生の戦い」の結果、織田信行方は敗れ、居城である末森城で籠城することとなりました。

こうした兄弟の熾烈な争いは、2人の母である土田御前の執り成しによって収束を迎えます。母のおかげで、織田信行は重臣らとともに放免となり、しばらくは織田信長方に対して無抵抗な態度を取っていました。

清洲会議が行われた清洲城

清洲城

ところが、織田信行の心に宿る兄への敵意が消えることはなく、再び謀反の動きを見せ始めます。この行動を織田信長方に寝返った柴田勝家が密告すると、織田信長は仮病を装って本城である「清洲城」(愛知県清須市)に織田信行を誘い出すことに。

そして、見舞いに訪れた織田信行は、そのまま清州城で兄に殺害され、一生を終えてしまったのです。織田信行の死後、織田信長は短期間で守護・守護代家の追放を果たし、尾張国の支配を急激に進めることとなりました。

織田信行が父とともに眠る「桃巌寺」

織田信行が居城としていた末森城跡の近くに、「桃巌寺」(とうがんじ:名古屋市千種区)という寺院があるのをご存知でしょうか。

ここは、父である織田信秀の菩提を弔うために織田信行が建立した寺院で、織田信秀の法名「桃巌道見大禅定門」にちなんで桃巌寺という名が付けられたと伝えられています。境内には、父の織田信秀とともに織田信行の名が刻まれた墓石があり、なんとそこには重臣のひとりであった柴田勝家の名も。

柴田勝家に裏切られて殺害された織田信行のことを思うと、少々複雑な気持ちを抱いてしまいます。境内には、巨大な木魚や「名古屋大仏」といった見どころもあるので、末森城跡と合わせて織田信行ゆかりの桃巌寺に足を運んでみてはいかがでしょうか。

大河ドラマ「麒麟がくる」に登場した織田信行

織田信行の姿は、2020年(令和2年)1月から2021年(令和3年)2月にかけて放送されたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも描かれています。織田信行役(ドラマ内の名称は織田信勝)は、「WATER BOYS2」や「花ざかりの君たちへ~イケメン♂パラダイス~」などのヒット作に出演している俳優「木村了」さんが演じました。

13年ぶりの大河ドラマ出演で、兄に対し敵対心を燃やす織田信行を見事に演じ切っています。「染谷将太」さん演じる織田信長と、木村了さん演じる織田信行の兄弟対決は、本作の見どころのひとつでもありました。

特に、清州城に誘い出された織田信行が、織田信長と対峙するシーンは記憶に残っている方も多いことでしょう。2人が本音を語り合ったあと、織田信行が持参した毒入りの湧き水を織田信長に「飲め!」と迫られるも、織田信行は飲むことができず、殺害されてしまいます。この兄弟の悲しい結末と、2人の迫真の演技が放送後に話題となりました。

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