パ・リーグの人気が下降するとともに南海ホークスも低迷した。「わたしが生きている間はホークスは手放さない」と言い続けていた南海電鉄・川勝傳元会長は昭和63年4月に死去。南海電鉄は同年9月、ホークスをダイエーへ売却した。ホークスは九州・福岡へ移転。大阪球場は主を失ったが、「なんばパークス」として生まれ変わるまでたくましく生き続けた。関西の人々に親しまれ続けた大阪球場の最後の姿を見てみよう。
球団売却へ
昭和63年9月13日、「南海ホークス」のダイエーへの譲渡が決まった。記者団に囲まれたホークスの吉村茂夫オーナーはこう語った。
「球団を売るのは2、3年先と思っていたが、そのころに優勝を争えるチームになっているかどうか。それなら望まれているこの時期に-と決断しました」
当時の南海電鉄にとって最大の課題は、6年後に開港予定の関西国際空港に関連する難波再開発の成否にあった。低迷が続き観客動員の少ないホークスは毎年、4億円以上の赤字が続いていた。そんな中、「わたしが生きている間はホークスは売らん」と言い続けてきた川勝オーナーが死去した。
「かつては電鉄会社が球団を持つのが当たり前だったが、時代の流れは変わりつつある」
吉村オーナーは「球団売却」へかじをきった。
63年10月15日、大阪球場での南海ホークス最後の試合となる近鉄25回戦が行われた。開場10分でスタンドは別れを惜しむファン3万2千人で超満員。入場できなかった約1万人が球場周辺を取り巻いた。
試合は6-4で南海が勝利。試合後、球団旗を持って杉浦忠監督や選手たちがグラウンドを一周。皆、涙を流した。
驚きの発想
主がいなくなった大阪球場。野外コンサートの開催にも問題あり。では、どう活用すればいい? 窮地に追い込まれたときの〝南海マン〟の発想力には驚く。なんと、球場の中に「住宅展示場」を作ったのだ。
約3300坪の敷地に住宅メーカー18社の最新のモデルハウス21棟を建て、平成3年4月、日本で初の球場内イベント型住宅展示場『なんば大阪球場住宅博』を開催した。球場内に駐車場もあり、周囲は繁華街。大人気となった「住宅博」は7年間も続いた。
一方で南海電鉄はにぎわいと個性豊かな未来都市〝なにわ新都〟をめざして「難波再開発計画」を具体化。平成10年11月、ついに大阪球場解体工事を開始したのである。
緑豊かな「パークス」に
平成15年10月、大阪球場は「なんばパークス」に生まれ変わった。
「自分らしさ」を大切にする30歳前後の女性をターゲットとして、おしゃれな店が集まる商業施設だ。
パークス全体をひとつの街としてとらえ、階段状に奥へ延びてゆく通り。巨大な建物の谷間を抜けていくような「キャニオンストリート」。屋上には緑豊かな「パークスガーデン」。テラスを持つレストランも特徴のひとつだ。
開業から20年の歳月が流れた。だが「なんばパークス」は色あせない。
この企画の最初に登場した大阪歴史博物館の阿部文和学芸員(建築担当)によると-。
「半公園、半商業施設。グニャリとした通りは壁がグランドキャニオン色のグラデーションになり、屋上には木が植わっている。大阪は明治以降〝緑地帯が少ない〟といわれ、自然との共存が大事。木を植えながら緑とともに都市を発展させていくという画期的な建物だと思います」
大阪の歴史に残る建物になりつつあるようだ。
1枚の写真
大阪球場内に劇団四季の「キャッツドーム」があったのをご存じだろうか。
平成4年7月18日から翌5年の9月23日までの1年2カ月で487回上演され、総入場者数は46万人を超えた。とはいえ、球場の中に入らなければその姿は見ることができない。ドームの周りは住宅展示場。航空写真ならではの全景だ。(田所龍一)
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