保守主義について
よく,保守と革新(リベラル)の違いについてご質問のメッセージを頂きます。そこで,「保守」について私の考えを書きたいと思います。
保守とは何か一言で表現するならば,それは「相続」です。つまり,国家主義的であったり,安全保障に真摯であることは,「保守」といった政治的観念とは別個のものです。(現実主義と理想主義といった違いです)
そして,保守の対義語である革新(リベラル)を一言で表すとしたならば,それは「契約」です。
例えば,(クローン人間が禁止されている以上)誰にでも生物学上の父母がいます。動物であっても,生殖を経て子供が生まれます。親子の関係は,契約によって生じるのではなく,遺伝学上定義されます。もちろん,養子縁組といった「契約」による親子関係の擬制もありますが,保守はこういった考え方とは親和性を持ちません。
つまり,親子とは血の繋がりによって成立し,契約によって親子となるのではありません。
しかし,会社は契約によって設立します。定款を作成し,公証人による認証を経て会社法人が設立します。例え社長が親であっても,自然に社長の子が社長となるのではなく,契約をして社長に就きます。
保守とは,この相続の視点から国家を論じ,革新とは契約の視点から国家を論じます。
この議論は,ジョン・ロックの『統治二論』から読み取ることが出来ます。ロックは,国家の起源を契約に求めました。つまり,会社設立と同じように,個人が相互に契約を結んで国家を誕生させたと推定したのです。
従い,契約による誕生である以上,契約によって解散することも出来ます。契約である以上,契約違反があったならば,国王を解雇することも出来ると考えられました。
つまり,親子関係も夫婦関係も国家と国民の関係も「契約」に基づくとロックは考えたのでした。これがリベラルの原点です。しかし,相続の視点からみれば「親を解雇する」ことなど出来ません。
ところで,ロックの『統治二論』は,その前半部分をロバート・フィルマーの「Patriarcha(パトリアーカ)」といった本の批判に充てられています。(統治二論は広く読まれていますが,前半部分が日本語訳されたのはつい最近のことで,多くの日本人は前半を読んでいないのです)
パトリアーカとはラテン語で,「部族・血縁集団における男性の指導者」を意味します。つまり,意訳すれば「天皇」とも訳することが出来ます。(家父長論といった訳し方もあります)
この「パトリアーカ」こそ,私は保守主義の原点であると考えています。(この本も長らく日本語訳されませんでしたが,つい最近になって邦訳されました)
ロックは国家の起源を契約に求めましたが,フィルマーは国家の起源を「相続」によって証明しました。
つまり,最初にアダムとイブがいました。そして,カインとアベルが生まれました。アダムとイブは,愛情によって自らの持つ財産と名誉のすべてを「自分の子供である」といっただけの理由で,すべて子供たちにプレゼントしようと思いました。これが「相続」です。
そして,相続が連続すると,親が耕した田畑や育てた家畜が増えてきます。これらの資産をつかい,田畑を守る兵士を雇うことが出来ます。相続は世代を重ねるごとに増えていき,広大な田畑と家畜と,その生産物によって命を授かった多くの人々ができました。こうして,相続の連続によって「王権」が誕生し,この王権によって国家が誕生したのです。
同じことは日本神話でも語り継がれています。すなわち,イザナギとイザナミの子孫として,今上天皇がおられます。その地位は相続によって得ることができるものであり,契約はありません。
(日本民族を天皇が代表して,紫宸殿において日本国の繁栄を神々と契約した五か条の御誓文があり,天皇と神々の契約はあっても,天皇と国民には本来契約は無いのです。ここから,日本国憲法で規定されているから天皇の地位があるのではなく,天皇があるからこそ,その発布に依り日本国憲法があるとの考え方になります)
国家の誕生が相続にある以上,天皇(国王)と臣民(国民)の関係に契約はありません。
これは貴族の地位にもいえます。貴族は,子供を強く愛するからこそ,名誉と資産を子供に相続させます。これが連続することで,「貴族の地位」となるのです。
一世代で貴族となった者は,神話上ではスサノオノミコトの娘スセリ姫と結婚したことで貴族の地位を得た大国主と,日本史上ですと豊臣秀吉くらいでしょうか。
つまり,保守は相続によって「この世が誕生した」と考えるため,親子の愛情と等しく,国土を自らの血肉に等しいものと考え,強い愛国心を持ちます。
しかし,革新は契約によって今の世界が誕生したと考えるため,シビアであり,契約内容の変更によっては国土の切り売りも可能であり,天皇の地位にすら強い愛着を持ちません。従い,男系天皇の否定といった思想にもなりますし,愛国心のために戦死された方々への弔意も無いか,きわめて希薄なものとなっています。
以上,縷々と述べましたが,要するに保守とは「愛」なのです。愛があるからこそ,子供にすべてを相続させ,その歴史的連続性の上に今の日本があると考えます。
一方で,革新に愛は無いため,愛国心もありませんし,不倫による家族離散も平然とします。この延長線上に,ドメスティックバイオレンスや児童虐待があることを否定できないものと考えます。
日本国が敵に襲われても,派遣先の会社のために命を捧げる人があまりいないように,「逃げればいい」といった発想になりす。
しかし,人はお金のために死ぬことはありませんが,愛のためならば死ぬことが出来ます。子供のためや,愛する人のため死ぬことは,決しておかしいことではないのです。
愛する人と恋をして,子供をつくり,そして,生まれてきた子供を愛して,自らの財産のすべてをプレゼントする。
これが「保守」であり,これが国家の起源です。だから,国家は家族と同じく大切にしなければならず,家族のために命を捧げることが当然であるように,国家のためには命を捧げても守らなければならないと考えます。
ただし,単に劣情の結果生まれ,父は母を愛さずに放置し,子供も愛さず何一つ相続させかった場合,その人は家族を愛すること出来ず,当然命をかけて守ることもしないことでしょう。この家族観は国家観と同じくします。
ですから,私は国家の原点である個々の家族の保護こそ,最大の国防であると考えています。
家族を破壊する一切の要素,配偶者間暴力や児童虐待,不倫,人工妊娠中絶(経済的理由),少子化など,すべて保守の敵です。これらの要素を厳しく処断してなくしていくことが,保守政治の目標でもあると強く考えています。
家族を愛している人は,既に「保守」なのです。
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