43年前の1980年、鳴り物入りで阪神入りした岡田彰布を守備走塁コーチとして迎えたのが安藤統男氏だ。82年からの3年間は監督として岡田をチームの主力に育て上げた。その教え子が監督として挑む日本シリーズは目前。岡田の若き日を振り返る見聞録アーカイブをお届けする。
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伝説の甲子園でのバックスクリーン3連発は私が監督をやめた翌年、1985年4月17日の巨人戦での快挙でした。岡田は掛布、バースの2人が打つのを目の前で見ていますから、プレッシャーは3人のうちで一番かかったはずです。そんな中で打ったのですから、たいしたものです。
大学4年間の通算が、打率・379、81打点(ともに歴代1位)、20本塁打(同4位)。早大時代の成績は東京六大学野球史上に残ります。79年のドラフト会議、地元大阪出身の大学野球のスターを1位指名で引き当てたのですから虎ファンは驚喜しました。
が、80年の内野陣、岡田が大学時代に守っていた三塁には掛布、遊撃には真弓がいました。ヤクルトからトレードでヒルトンも獲得していました。監督はブレイザー。私は守備走塁コーチでした。岡田は即戦力でしたが、メジャーではどんなに力がある選手でも「1年目は育てる年」という考えがあったようで、ブレイザーはヒルトンを使い続けました。ところが、開幕から打率が2割にも届かない。阪神ファンからブーイングが起き、5月に入ると球団はヒルトンを解雇。この処分を巡って球団と対立したブレイザーも退団しました。
そんな騒動の中、岡田は打ち続けました。入団早々、打撃練習を見て感心したのですが、内角球のさばき方は一流でした。経験が浅い二塁のポジションでも、併殺を阻止しようとする走者との接触を怖がらず、勇敢なプレーを見せました。
私が監督に就任した82年に初めて3割を打つなど、順風満帆だった野球人生。一変したのは83年です。甲子園のぬかるんだグラウンドの守備で股裂きのような体勢になり、右太ももの筋肉を断裂する大けがをしました。医者から「今度やったら選手生命にかかわります。完全に治るまでは使わないでください」と言われました。完治したら再び二塁に戻すつもりで、私は岡田を一時的に外野にコンバートすることを決めました。将来がある選手をつぶさないためには、それしかありませんでした。翌年には足が治って二塁に戻りました。その後の活躍は、皆さんがご存じの通りです。
岡田は監督としても成功しました。ジェフ・ウイリアムス、藤川球児、久保田智之の頭文字を取った「JFK」の必勝リレーを作ったのは岡田監督です。05年には優勝もし、指導者としての地位を確立しました。
しかし、08年、最大13ゲーム引き離しながら巨人に逆転優勝を許すと「逆転されたのは監督の責任」と、その日のうちに辞任を決意しました。誰かが悪者にならないとおさまらないのが阪神。それを岡田は知っていました。そのいさぎよさに驚いたものです。