さて、今回は『阿波院』と称された不思議に満ちた天皇のお話。
徳島県鳴門市大麻町池谷。
この地に鎮座する『阿波神社』。
その境内には、ある天皇の火葬塚がある。
その天皇とは、第83代『土御門天皇』。
この天皇には『土佐院』『阿波院』といった別称がある。
なぜ、阿波神社の祭神となり、その境内に火葬塚があるのか。
土御門天皇はとても不思議な天皇である。
父親は先代の天皇『後鳥羽天皇』。
そのキャラクターは多芸多才で、
学芸に優れ、
武芸にも通じる異色の天皇だった。
1198年、息子の土御門天皇に譲位し、
『後鳥羽上皇』となる。
時は鎌倉時代。
貴族政権を率いる後鳥羽上皇は、
鎌倉幕府と対立し、承久の乱を起こした。
そして、鎌倉幕府に破れ去った。
後鳥羽上皇は隠岐島に配流され、
父の計画に加担した土御門天皇の弟である
順徳上皇は佐渡島に流された。
※順徳上皇は、後鳥羽上皇に似て気性が激しかった。
一方で、土御門天皇は穏和な性格だったという。
そして、
土御門天皇は、
後鳥羽上皇の計画に関与しなかった為、処罰の対象にはならなかった。
しかし、自分だけが京に留まるのは忍びないとして、土御門天皇は自ら、
土佐国へと流された。
そしてその2年後…
なぜか…
阿波国へと移った。
阿波国に移って9年後の1231年、
土御門天皇は崩御した。
阿波徳島にその火葬場があるのは、そのような事実があったからである。
その他、同じ鳴門市の天皇神社など、徳島には土御門天皇にまつわる伝承や記録が数多く残っている。
また、徳島新聞によると、
阿波神社は1940(昭和15)年、火葬塚に隣接して社殿の造営が計画され、1943年10月に完成を見た。四国で唯一の「官幣大社」への昇格が内定していたものの、終戦で神社の社格が廃止されたため、実現することはなかったという。
とのことである。
土御門天皇の残した歌に興味深い歌がある。
秋風の
はらいし宿は
野となりて
くずのうら葉ぞ
庭にのこれる
この歌の頭文字を見れば、天皇が阿波に深い思い入れがあったことは明白である。
(ア)秋風の
(ハ)はらいし宿は
(ノ)野となりて
(ク)くずのうら葉ぞ
(ニ)庭にのこれる
頭文字に「阿波の国(アハノクニ)」が隠されていたのだ。
さて、土御門と言えば、中世の京都で発展した陰陽師の家元は、『土御門家』。
阿波国へ移る前に土御門天皇がいた土佐国には、気になる逸話がある。
近年になって、
物部村の民家から、
土御門家による免許状が発見された。
※物部村=かつて物部川上流域に存在した村。
現在の高知県香美市物部町。
香美(カミ)市には、弥生土器が見つかった龍河洞や、銅鐸を保存している大川上美良布神社などがあることから、大昔から集落が存在していたとされている。
つまり、
土御門家から、土佐で独自発展した陰陽道の流れを汲む信仰と公認された民間信仰があることが証明されたのである。
その名を『いざなぎ流』と呼ぶ。
陰陽道と言えば、陰陽五行↓
五芒星の中には五角形。
徳島市の八倉比売神社の奥の院、
通称『卑弥呼の墓』は五角形だった。
その付近の大泉神社の井戸も五角形。
阿波徳島を中心に、神社境内には五角形の地神塚がある。
土御門天皇は知っていたのではなかろうか。
御自分の祖先の始まりが、阿波だったことを。
「本当の故郷に還る」
それは、人も神も、天皇でさえ、その歴史の一端に触れることで、自らのルーツを探りたくなるという、至極当たり前のことなのだ。
つづく。
ではまた❗
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