↑のつづき。
万葉集ってとても面白いのですっていうお話。
さて、今回は、古事記や日本書紀がこれまで誤解された解釈が定説となってしまった理由を書こうと思います。
今年の2月、出張で四国に赴く前にこんな記事を書いた。↓
記紀神話を正史としながらも、
明らかに「あり得ない話」だけを
「神様の話だからね」で片付けてしまっている事実。
例えば、
大国主から出雲の国を譲りうけた後、ニニギが降臨した場所が、なぜか遥か遠い九州の地だったこと。
例えば、
出雲でタケミカヅチに敗北したタカミナカタが、遥か遠い諏訪まで逃げていった不自然さ。
神様だから、雲に乗ったり空飛ぶ方舟に乗ったりして移動しました…と言われたならまだ納得してしまうが、少なくともイザナギ以降の神はとても
「人間味が溢れている」。
記紀神話をほとんどの日本人が誤解したキッカケは、『古事記伝』など江戸時代以降の国学者による神話の解釈本自体が、現在の定説になってしまったことだろう。
それにより、
記紀神話のみならず、
万葉集の歌までもが、大いなる誤解を生んでしまった。
誤解の理由は主に二つの落とし穴。
一つは地形。
現在では平地の地域も、古代は海だった場合がある。
また、「島」とつく地名は、
古代は海に囲まれた島だったことが多い。
古くから残る地図や伝承などで、一体どの程度、
海抜の変化を理解出来たのだろうか。
科学的根拠で言えば、現在の理論が優勢なことは言うまでもない。
もう一つは、
『地名』の落とし穴である。
●『大宝律令(たいほうりつりょう)』
西暦701年(大宝元年)に制定された日本の律令。
遅くともこの時期までに進められた日本の律令制は、中国の制度を参考にしたのだそうな。
645年、『大化』という年号がこの国に生まれ、
701年に『大宝』の年号が生まれた。
以来、現在の令和まで日本の年号は途切れたことはない。
そして、大宝律令が制定された頃には、
『日本』の国号が現れていた。
712年、古事記が編纂された。
713年、諸国に風土記の編纂が命じられたと同時に、好字二字令が下された。
律令制、そして好字二字令により、
全国の三文字や一文字の国名は、
全て二文字に変えられたり分散された。
常陸国⇒常陸国、陸奥国
凡河内国⇒河内国、摂津国
筑紫国⇒筑前国、筑後国
火国⇒肥前国、肥後国
豊国⇒豊前国、豊後国
泉⇒和泉
木⇒紀伊
下毛野⇒下野
上毛野⇒上野
近淡海⇒近江
遠淡海⇒遠江
粟⇒阿波
そればかりか、地名自体を変えられてしまった。
●近江国大津
近江国とは現在の滋賀県。
その国府は大津市だったと言われている。
しかし、近江国の表記が登場したのは、
大宝律令の時だった。
「近江」を「おうみ」と読むが、完全に宛字である。
元は、「近淡海」。
しかし、滋賀県の琵琶湖を「近淡海」と記した例は無い。
中央政権のある「畿内から近い海」という意味だ。
そして、「おうみ」の由来は『淡海(あわうみ)』である。
次に、『大津』の地名。
これが大問題だったのである。
●近江大津宮
667年、天智天皇は飛鳥から近江に遷都し
この宮で正式に即位した。
しかし、667年と言えば、701年の大宝律令よりも前のこと。
この地が『大津』になったのは、大宝律令の後である。
大宝律令以前、琵琶湖畔は『古津』と呼ばれていた。
ならば、天智天皇が即位した『大津宮』は、
現在の滋賀県大津市ではなかったことになる。
この時代、滋賀県にはまだ『大津』と呼ばれる地名は無かったのだから。。。
現在の『大津』は、
平安京が建設された794年、
桓武天皇の御代、
昔の「大津宮」をしのび、
近江国琵琶湖畔の「古津」が
『大津』に改名されたのである。
※ちなみに、現在の滋賀県大津市南部には、
『粟津(あわづ)』の地名が残っている。
昨年夏に参拝した膳所神社。
創建は奈良時代と伝わる。
祭神の豊受比売命は、阿波の別名である
『オオゲツヒメ』と同一神だとされている。
では、667年、本当の『大津』は何処にあったのだろうか。
●淡海(あわうみ)
結論から言うと、近江の由来と言われる
「淡海」は『阿波海(あわうみ)』だった。
つまり、阿波近海のことである。
万葉集に興味深い歌がある。
天智天皇の皇后『倭姫王』が詠んだ歌である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
鯨魚(いさな)取り 近江の海を
沖放けて 漕ぎ来る舟
辺付きて 漕ぎ来る舟
沖つ櫂 いたくな撥ねそ
辺つ櫂 いたくな撥ねそ
若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ
―和訳―
鯨魚(いさな)取り近江(淡海)の海、
この海を 沖辺はるかに漕いで来る舟よ
岸辺に沿うて漕いで来る舟よ
沖の櫂もやたらに撥ねてくれるな
岸の櫂もやたらに撥ねてくれるな
若草匂う我が夫(つま)の思いのこもる鳥、
その御魂の鳥が驚いて飛び立ってしまうから
~~~~~~~~~~~~~~~~
この違和感にお気づきだろうか。
歌中の冒頭に出てくる「鯨魚(いさな)」とは
「クジラ」のことである。
近江が琵琶湖だとした場合、
果たして湖で「クジラ」が取れるだろうか。
つまり、近江(淡海)は、
クジラの泳ぐ「海」でなくてはならないのだ。
だ、か、ら、
「淡海」とは本来、
『阿波海(あわうみ)』のことなのである。
では、古代の『大津』とは何処を指していたか。
それは、徳島県鳴門市大津のことだった。
鳴門市の海側(阿波海)には、滋賀県大津市と同様、
『粟津』の地名がある。
その意味はそのまま、「阿波の港」である。
つまり、『大津』や『粟津』などの地名は、
後世に阿波国から近江国に移されたことを意味する。
『大御和(おおみわ)神社』
鎮座地 徳島県徳島市国府町府中
由緒書きによると、
人皇第四十二代文武天皇の大宝二年、 当国の国司より国璽の印、及び国庫の鑰を献納されたことから、その後、印鑰大明神と奉称された。
とある。
大宝二年と言えば、大宝律令の翌年である。
国璽の印と国庫の鑰が、なぜこのタイミングで献納されたのか。
この時こそが、皇都が正式に阿波から近畿に遷都された時だったのではなかろうか。
大津宮までは阿波徳島にあり、
710年の平城京から皇都が近畿に遷された。
現在の定説、一般常識は、
万葉集に記された天智天皇の皇后『倭姫王』の歌によって、
簡単にひっくり返ってしまうのである。
神武天皇が畿内を開拓し、
崇神天皇が領地を広げ、
日本武尊が九州や関東に進出、
坂上田村麻呂が東北を制圧し、
空海が主要な神社を勧請した。
邪馬壹国(倭)⇒大和⇒日本と名を変えていったこの国は、日本列島にかつて存在した、
百を越える国々の中のたったひとつ、
『倭』という小国から、徐々に国土を広げていったのだった。
その始まりが阿波徳島。
万葉集の情景を正しく思い浮かべることで
その可能性が高まることは否定出来ないのである。
つづく。
ではまた❗
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