1970年代、松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)は次世代の柱としてビデオ事業を立ち上げた。岡山工場を建設し、増産を図るも失敗。ビデオ事業部は解体の憂き目に遭った。そんななか、「救いの神」が現れる……。ノンフィクション『決断 パナソニックとソニー、勝負の分かれ目』(藤本秀文著)より抜粋・再構成し、「VHS対β」戦争の裏側を紹介する。(文中敬称略)

第1回「ソニーがアップルを買収しなかった本当の理由
第2回「松下幸之助も絶賛した特殊任務 『松下・ヤング』作戦

救いの神

 松下のビデオ事業部が風前の灯だったのと対照的に、家庭用ビデオの開発ではソニーが抜きんでていた。当時、ビデオ事業の責任者だった谷井昭雄らが部下たちに岡山工場の草むしりをさせていた1975年5月、ソニーは「β(ベータ)マックス」の発売に踏み切る。

 業務用ビデオを最初に世に出したのは米アンペックス社だが、ソニーはアンペックスと技術提携を結び、いち早くビデオにトランジスタを採用し小型化に成功。カセット方式を統一仕様として打ち出した。これがのちの家庭用ビデオのスタンダードとなる。

 発売の1年前、松下はソニーから「β方式を統一規格として一緒にやらないか」との打診を受けていた。谷井も「βマックスは当時としては画期的な商品で、やむを得ずそれに乗ろうかという思いが現場にはあった」と打ち明ける。実際に10日間でβ方式の試作機を作ってその性能の高さに舌を巻いた。

 ポスト・カラーテレビの大本命である家庭用ビデオの分野でソニーの軍門にくだりかけた絶体絶命の危機にあった松下。その救いの神として現れたのが、松下傘下にあった日本ビクターだった。

 開発の指揮をしていたのは高柳健次郎だ。浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の教授の時に、世界で初めてブラウン管に「イ」の字を映し出し、日本の「テレビの父」といわれた人物だ。戦後、ビクターに転じ、その教え子である高野鎮雄が家庭用ビデオの開発を引き継いだ。

 当初は売れなかったが、高野がビデオ事業部長に就任して5年後に「VHS」の試作機第1号が完成する。βマックスの発売から7カ月がたっていた。

 高野の手掛けたVHSはβマックスより一回り小さく、5キログラムほど軽かった。ビクターは松下に猛烈に売り込みをかけた。ソニーは盛田昭夫らが松下幸之助に対し、世界標準としてβの採用を働きかけていた。販売力に劣るビクターだけではとてもソニーに太刀打ちできない。松下の強力な販売網が必要だった。

「VHS対β」戦争、始まる

 VHSをとるか、βをとるか。判断は幸之助に委ねられた。幸之助は谷井を自室に呼んだ。

 「君、ソニーさんの機械はええな。ようできとんな。でもうちのも(=VHS)いいな。ソニーさんの機械が100点とすれば、うちの機械は200点や。100点より200点のほうがいいやろ」

 幸之助の言葉に「はい」と谷井が答えると「うちの機械に決めよか」と幸之助がぽつっと言ったという。

 β方式への規格統一を迫るソニーに対して、幸之助は仁義を切った。松下本社に訪れた会長の盛田らに対し、部屋の机の上にソニーとビクターの製品を並べた。

 「βも捨てがたい。でもどうみても日本ビクターのもののほうが部品点数が少ない。私のところは1000円でも100円でも安く作れるほうを採ります。後発メーカーとしてのハンディキャップを取り返すためにはこちらは製造コストの安いほうでやるしかありまへんな」と答え、盛田が薦めるβの採用を断った。

 松下は傘下の日本ビクターが開発したVHSでソニーと相まみえることになった。世に言う「VHS対β」戦争である。

 雌雄を決するのは世界最大の市場である米国市場をどちらが押さえるかだった。米国市場への進出でもソニーは一歩先んじていた。ソニーは米家電大手のゼニス社と1977年に全面提携を結んでいた。

 焦った松下は、当時社長だった松下正治がソニーとゼニス社との提携発表直後に急きょ米国に飛び、ゼニス社のライバルだったRCA社に提携を申し入れた。RCA社は白黒、カラーテレビを世に出した業界の名門でゼニス社と市場を二分していた。

RCA社からの無理難題

 当時、β方式の基本設計は60分録画で、VHSは120分録画だった。しかし、正治らが渡米する直前にソニーは録画時間を120分まで引き上げた新製品を発表した。同じ120分録画では、テープの長さが70%長いVHS方式は不利になる。

 そこでRCA社は「240分(4時間)録画ができるVHS方式」の開発・供給を求めてきた。人気が高いアメリカンフットボールの試合をまるまる録画できるビデオを要求してきたのだ。

 「わしがやる」。RCA社との交渉には当時相談役だった幸之助が乗り込んでいった。アメリカ松下社の社長だった原田明(のちの副社長)を通訳として呼び出し、交渉に臨んだ。

 大阪・中之島のロイヤルホテル(現・リーガロイヤルホテル大阪)で開かれたRCA社との最終交渉。ホテルの部屋の外には社長の山下俊彦と、担当副社長の稲井隆義が控えていた。何時間過ぎたのか分からない。その時、幸之助が部屋からすっと出てきて山下と稲井に「どうや」と問うた。

 RCA社は4時間録画のほかにも、(1)小売価格は消費者が買いやすい1000ドルにする(2)初期出荷はクリスマスセールに間に合うよう8月初旬とし年内に5万5000台を出荷する(3)ソフトを普及させるため業務用ビデオソフト(ダビングマシン)センターを米国内に4カ所設置する――などの条件を突きつけてきた。

 谷井の上司であった稲井は四国にある松下寿電子工業(現・PHCホールディングス)の社長も兼務し、コスト削減や品質改善など生産技術に関しては松下では並ぶ者がいない実力副社長で幸之助からの信頼も厚かった。

 稲井の松下寿でも独自にVX方式の100分録画の「VX-2000」をソニーのβマックスより廉価な21万円で1976年6月に発売した。しかし、βマックスよりも画質が悪く、販売は伸び悩んでいた。「松下のもの作りの神様」を自認していた稲井にしても、自ら失敗していたこともあり、RCAの要求はかなりハードルが高いものだったのは否定しようがない。

 幸之助から問い詰められた稲井はしばらく考えた。眼鏡越しに見える幸之助の目はいつもより大きく見えた。しばらくの沈黙ののちに稲井は「仕方ないでっしゃろな」とぽつりと答えた。この一言が決め手となった。幸之助はRCA社との交渉部屋に戻り、すべての条件を受け入れた。

 1977年3月。社長になったばかりの山下が松下本社でRCA社との正式契約にサインした。

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