渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

大昔のアメリカンレース事始め

2024年11月09日 | open



アメリカはダートトラック
レースが今でも大人気だ。
陸上競技場のようなオーバ
ルコースを左回りに周回す
る。
そのトラックレースが日本
でも戦前から開催され、戦
後には日本独自のオートレ
ースとして定着した。
ダートトラックはフラット
トラックとバンク付きコー
ナーのトラックとがある。
日本のオートレースは専用
レース場が無い頃は競馬場
でも開催されていた。

アメリカンレースの真骨頂
ともいえるトラックレース
だが、始まりはボードトラ
ックという板張りの専用コ
ースでレースが行われていた。
1900年代初頭の頃だ。
そこを時速160キロで駆け抜
けて行く。TON-UPだ。
まだヘルメットも防護服も
存在しない。
せいぜい出始めた航空機パ
イロット用の帽子を被る程
度。

あまりに死人が出るので、
1920代に入りボードトラッ
クは廃止になった。
そしてダートトラックに置き
換わったという歴史がある。
ダートトラックはその後バン
クのついたコースが復活し、
やがてはアスファルト舗装路
のコースも登場した。
アスファルトオーバルコース
でのスピード競争はアメリカ
人は大好きだ。
日本人でオーバルコースの
レースを好きなのは公営ギャ
ンブルファンが多いが、米国
では一般スポーツ競技として
も定着している。
そもそも、それでもアメリカ
はバクチが合法化されている
州も多いので、レースにも
賭け事が入って来るし、スポ
ンサーもつくので、スターティ
ングマネーも高額だ。
エントリーできて、予選通過
して、スターティンググリッド
につくだけでファイトマネー
のような大金が入る。
なのでレースで食っていける
が、それでもアメリカでさえ
もバイクのレースの選手は
プロスポーツとして社会的
地位も低く、プロモーターが
大きな興行収入を選手に還元
するプロスポーツとしては
成立していなかった。
アメフトやバスケやメジャー
リーグのベースボール選手
などは日本円にして何億円を
稼ごうとも、その当時で日本
円にするとトップアメリカン
選手でもレーシングライダー
はせいぜい1千万いくかいか
ないかの収入だった。雲泥の差。
それをどうにかプロスポーツ
として成功させようとレース
界に働きかけて変革させたの
が英国のバリー・シーンと米
国のケニー・ロバーツだった。
彼らは世界チャンピオンを連
続で取る世界トップの人材だ
ったが、単に選手だけでは
終わらなかった。
モーターサイクルレーシング
スポーツの世界にプロスポー
ツとして成立する仕組みと
働きかけと活動をしたのだ。
そしてバリーは英国から功労
として貴族の末端であるサー
の称号を女王陛下から下賜
された。一代限りの称号と
して。
一方ケニー・ロバーツは奮闘
するも、当時の世界選手権開
催者と対立を深めた。
全く選手の競技の安全性や報
酬について、主催者は関心が
なかったからだ。
どこかの国のプロ野球連盟の
重鎮が「たかが選手が無礼な
口をきくな」という態度と
全く一緒だ。
日本では古田氏が史上初の
プロ野球選手のストライキ
を敢行して、決死の行動に
よってプロ野球選手の待遇
改善が実現した。
だが、会頭などは最後まで
選手は使い捨ての駒程度に
しか考えていなかった。
スポーツ振興が国家的な国民
の健康発展に寄与するという
視点などは一切ない、封建的
な絶対君主思想の持主たちに
日本のプロスポーツは完全支
配されていたのだった。
それは実はアメリカでもモー
タースポーツレースの世界
では全く同様な構造があった。
「たかが二輪乗りの選手が」
という目線で資本家たちは
見下していたし、現実的に
危険なスポーツをするレーシ
ングライダーたちを見下して
扱っていた。四輪のF1などの
世界とは違ったのだ。

そうした感覚は私が子どもの
頃には国内も海外もその空気
が伝わって来た。
「貧乏でお金がない人が四輪
には乗れないから二輪に乗っ
て我慢している」という空気
が米国だけでなく日本でも蔓
延していたのは事実だ。
なので、二輪競技の出身者の
多くが「やがては四輪競技の
世界に」というのを目指した。
二輪などは刺身のツマ程度で
四輪こそがメインディッシュ
であり花形だった、という構
造は確実に存在したのだ。

そうした世界的な実際の構造
と人々の意識を変革させたの
は、1970年代~1980年代初期
のバリー・シーンとケニー・
ロバーツだった。
彼らの功績は多大なるものが
ある。単なる一選手ではない。
選手生命をかけて業界の改革
に身を投じたのだ。
彼らの偉大さは、ただ単に
「世界一速い男」だった事
だけではない。
世界そのものを変えたのであ
る。
なんのため?
それは、人々のため。
自分だけ一人儲けるような仕
組みを提案して年棒アップを
要求したのではない。全体の
全員の社会的地位の向上と安
全配慮の普及の活動をした。
日本のプロ野球では古田さん
のみがそれをやって仕組みと
構造を変革したが、レースの
世界ではバリーとケニーがそ
れをやった。
ケニーが世界選手権主催者と
完全対峙になった時、ケニー
世界グランプリとは別枠の
ワールドグランプリシリーズ
の組織化まで構想し、それを
対置させた。
情勢は動き、選手の多くがそ
のケニーの動きに同調しよう
とした。
焦ったWGP主催者はケニーに
和解を求め、組織的な運営方
針まで見直す事を約束して事
態は収拾したのだった。
ケニーや古田さんのような行
動は成功した例としてレアだ。
日本のビリヤード界でそれを
やろうとしたグループは潰さ
れた。
日本刀界でそれをやろうとし
た人たちも排除された。
大相撲界でも、不正を排し、
新枠組構想をしようとした
貴乃花は排除され角界からの
引退を余儀なくされた。
プロレスの世界は、分離独立
新団体設立で繚乱状態で、全
体のまとまりはない。

とりあえず、現在の二輪レー
スの基礎はケニーとバリーが
作った。
なお、現行の日本国内の二輪
の高速道路料金枠を作ったの
は私と仲間たちによる。
立ち上がらなければ、きっと
今でも二輪車は29人乗りの
マイクロバスと同じ高速料金
のままだった。
これは1980年代に日本の道路
事情の仕組みを根本から変え
た歴史的成果といえるだろう。
非合法活動ではなく真正面から
合法的にやって、多くのライ
ダーの力で今の仕組みを勝ち
取った。ほんとは全線無料化
が最終目標だったが、第一
段階を勝利的に終える事が
1980年代末期に実現し、現在
の高速道路料金体系に生きて
いる。
私らが何もせずに指を咥えて
ただ陰で文句や愚痴を言って
るだけでは世の中の構造は
現実的に何も変わらなかった
事だろう。
既存の「構造体」というもの
は甘くない。
決死の覚悟で動かないと現実
をつかみ取る事はできない。

私は二輪乗りだ。
二輪は前にしか進まない。
身体で風を切り開いて前進す
のがモーターサイクルだ。
私はそれに乗る人間だ。
乗る者はみんなも進め。前へ。
さらに、一歩前へ。




 
 




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