2022年10月7日――。米商務省の産業安全保障局(BIS)がこの日、何の予告もなく中国への新たな経済制裁を発表した。強烈な規制に翻弄される日本企業、その規制の真の狙いは? 日増しにきな臭くなる国際情勢のなかで、各国は国家の存亡をかけて半導体の争奪戦を繰り広げている。その先に現れるのは、いったいどんな世界なのか。『2030 半導体の地政学[増補版] 戦略物資を支配するのは誰か』(太田泰彦著/日本経済新聞出版)から抜粋・再構成。
バズーカ砲に動転する日本企業
「当社の製品はこれから中国に輸出できなくなるのですか」
「米国の技術ライセンスを使った製品を扱っているのですが、大丈夫でしょうか」
「中国の顧客とすでに契約を結んでいるのですが、どうすればいいでしょう」
2022年10月11日――。東京・虎ノ門にある安全保障貿易情報センター(CISTEC)は、この日を境に慌ただしい日々を送ることになる。ワシントン発で届いた米国の輸出規制の告知を受けて、企業から問い合わせが殺到したからだ。
CISTECは貿易管理に関する調査や企業支援を行う公的な団体である。1987年に起きた東芝機械(現・芝浦機械)ココム事件を機に、官民が資金を拠出して発足したのが始まりだった。核兵器、生物・化学兵器、ミサイルなどの大量破壊兵器を拡散させないために、世界から情報を集め、日本の企業にアドバイスする役割を担っている。
米国時間で前週金曜日の10月7日――。米商務省の産業安全保障局(BIS)がこの日、何の予告もなく中国への新たな経済制裁を発表していた。日本企業が反応して動き出したのが、祝日を挟んだ翌週火曜日の11日だった。CISTEC調査研究部長の中野雅之は「いきなりバズーカ砲のような強烈な規制を背中から食らったのだから、日本企業が動転するのは無理もない」と語る。
禁輸リストは長大で詳細にわたり、技術的な解釈が難しい部分が多い。企業から質問を受けるたびにCISTECは、ワシントンのBISに照会しなければならなかった。
背中から打たれたバズーカは、もちろん日本を狙ったものではない。日本の先にいる中国に向けた奇襲攻撃だった。だが、規制の中身は多くの日本企業が予想していたより内容が厳しい。特に半導体をつくる装置メーカーが受ける影響は甚大だった。この業界が中国に多くの製品を輸出しているからだ。2021年の統計を見ると、日本の半導体製造装置の中国での売上高は、海外全体の約30%を占めている。中国市場を失えば、日本の半導体製造装置メーカーは立ち行かなくなる。
米国が張る「シリコン・カーテン」
「うっかり機械を中国に輸出したら米国に刺される」――。
あるメーカーの輸出担当者は、37年前に起きた東芝機械ココム事件の悪夢が脳裏をよぎったという。
不正に輸出された日本の工作機械が原因で、旧ソ連の原子力潜水艦のスクリュー音が消え、探知できなくなった事件だ。米海軍を危険に陥れたとして、東芝機械の幹部に有罪判決まで出た。
今回の米国の輸出規制には、慎重に慎重を重ねて対応しなければならない……。企業の動揺を表すかのように、CISTECがまとめた報告書には「米国による対中輸出規制の著しい強化」と記されている。「規制の強化」ではない。「規制の著しい強化」だ。
まず規制対象が大きく広がっていた。スーパーコンピューターに関連するあらゆる技術を網にかけている。スパコンを開発するための半導体、材料、部品、機器、ソフトウエア、すべてだ。半導体の製造装置についても規制対象となる範囲が広がり、輸出に必要な届け出、審査、承認の仕組みが厳格化された。
禁輸措置の発表と同時に、米政府は日本、欧州連合(EU)、英国、台湾など米国以外の国や地域にも、同じ内容で対中規制を要求した。結束を固め、水も漏らさぬ包囲網を張るためだ。冷戦時代の「鉄のカーテン」になぞらえて、これを「シリコン・カーテン」と呼ぶ者もいる。
米政府が特に目を光らせたのが日本とオランダの動きだった。日本にはニコンやキヤノン、オランダにはASMLという、半導体をつくるために欠かせない高度な露光装置のメーカーがあるからだ。
「認知戦」の戦闘力の脅威
同盟国の経済を傷つけかねないリスクを承知で、なぜ商務省はバズーカ砲を撃ったのか。そのヒントは米国の官報に記されている。輸出規制を告知する文面には、中国のデジタル技術に対する焦りが色濃く映っていた。
まず、中国の人民解放軍が猛烈なスピードでデジタルトランスフォーメーション(DX)を進めているという現状認識。そして、中国軍がドローン、サイバー攻撃システム、高機能レーダー、極超音速ミサイル、暗号通信などに人工知能(AI)を使い、米国をしのぐ軍事力を備えつつあるという危機感だ。
武器の高度化だけではない。AIを応用すれば、人間が知恵を絞らなくても作戦計画を策定し、兵站(へいたん)の最適化もゼロ秒でできる。SNS(交流サイト)でフェイク情報を拡散して人々を扇動する情報戦、さらには人間の思考や行動を制御する「認知戦」でも中国が優位に立つ恐れがある。
認知戦とは陸、海、空、宇宙、サイバー空間に続く「第6の戦場」として、軍事研究が進んでいる分野だ。いわば人間の脳を支配する「制脳権」をめぐる戦いである。その重要性は2022年2月のロシアのウクライナ侵攻で浮き彫りになった。
ロシアとウクライナの戦いでは、ロシアが偽情報を駆使したといわれる。
「ウクライナ軍が化学兵器の準備をしている」
「炭疽(たんそ)菌やコレラを軍事利用する研究施設がウクライナにあった」
こうしたネット情報で、ウクライナ国民が恐怖に陥り、一時はパニック状態になったのは事実だ。
一方、ウクライナ側も黙ってはいない。戦闘で死傷した若いロシア兵の映像をネットで拡散し、ロシア国内にいる兵士の家族がプーチン大統領に敵意を抱くように仕向けたとされる。これが意図的な作戦だったとすれば、プーチン政権を内部から切り崩す認知戦で、大きな戦果を上げたことになる。
米政府が最も恐れているのは、中国軍がAIを活用して、こうした認知戦の戦闘力を高めることだ。
事実、中国では新型コロナウイルス禍を機に、公安当局が光学モニターによる市民の監視を強めているではないか。人間の感情を利用した大衆行動のコントロールで、中国は数々の〝実績〞を積み上げている。その経験値は侮れない。
太田泰彦著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)