忘れがたき日本シリーズの「石ころ事件」(田尾安志)
プロ野球で「試合の流れ」という言葉を口にする監督や選手は多い。劣勢のときにはどうあがいたところで前に進めない、まさに「流れ」というものが確かに存在する。クライマックスシリーズや日本シリーズなら「シリーズの流れ」にいかに乗れるかも重要な要素だ。
ちょっとしたことでシリーズの流れをつかみ損ねた経験がある。1982年、中日にいた私は初めて日本シリーズの舞台を踏んだ。1、2戦目は相手の西武がものにし、3、4戦目は中日と、互いに敵地で2連勝ずつして迎えた西武球場での第5戦のことだった。
0-0の三回2死から1番の私が内野安打で出塁した後、二塁に進んだ。続く平野謙の打球が一塁手の右を抜ける。先制点だと思ったところ、なぜか三塁ベースコーチの高木守道さんからストップがかかった。一塁線を抜けたと思った打球は、あろうことか塁審の足に当たり、カバーした二塁手から三塁手へ転送。慌てて三塁に戻ったものの間に合わず、アウトになった。
ベンチでは近藤貞雄監督や黒江透修コーチが口を開けてぼうぜん。打った平野は憤然。私も「ええかげんにせえよ」という気持ちだった。
一塁塁審は村田康一さん。すぐにフェアかファウルの判定をしなければ、という思いからよけるのが遅れたのかもしれないが、こちらはたまったものではない。
打球が審判に当たった場合はボールインプレーという野球規則は選手の誰もが理解している。いわば審判は石ころ同然というわけだが、グラウンドキーパーの人たちがちり一つないように整備してくれるフィールドに、あんな大きな〝石ころ〟があってはなるまい。みすみす先制のチャンスを逃した中日はこの試合を落とし、ナゴヤ球場に帰っての第6戦も敗れて2勝4敗で日本一を逃した。
あの第5戦は五回に大島康徳さんのソロ本塁打が出て、中日が先制している。どのみち逆転負けしたから、三回に私が先制のホームを踏めていたとしても戦況は変わらなかったのでは、という見方がある。ただ、平野の後の3番はケン・モッカ、4番は谷沢健一さん。一気にたたみかけて早々に相手の先発をノックアウトし、中日が流れをつかめていればどうなっていたか。試合の流れだけでなく、シリーズの流れもつかみ損ねた点で「石ころ事件」はまさに分岐点だった。
その後、私と平野は西武に移籍。私は86年、平野は88年と90~92年に日本一を経験したのは何かの因縁だろう。
86年の日本シリーズも西武がしっかりと流れをつかんだ点で印象深い。広島が相手の第1戦で2-2と引き分けた西武は続く第2戦からあれよあれよという間に3連敗、一気に土俵際に追い込まれた。「もはやあすも負けるだろう」というムードが広がり、東尾修さんか石毛宏典から「あさって、朝10時に西武園ゴルフ場に集合!」と号令がかかるほどだった。
だが、第5戦は延長十二回に工藤公康が放った決勝打でサヨナラ勝ち。広島市民球場に場所を移しての第6戦以降も勝ち続け、4連勝で奇跡の逆転日本一に輝いた。ペナントレースでは打席に立つことのない投手・工藤の一打がシリーズの流れを変えたといえるが、もう一人の立役者が森祇晶監督だった。
広島のデータをこれでもかと与えられた西武ナインはデータでがんじがらめになり、第4戦までは選手本来の良さが全く出せていなかった。そこで森さんは後がなくなった第5戦から首脳陣によるミーティングをやめた。1つ勝ち、2つ勝ち、3つ勝って五分にしてもミーティングは復活させず、選手だけの作戦会議にすべて委ねた。あそこでまた「みんな集まれ」とやっていたら、選手は水を差された気分になり、日本一には届かなかったかもしれない。選手主導で生まれた流れに逆らわないという妙手が、球史に残る大逆転劇を生んだ。
全6試合のうち5試合が1点差だった昨年に続き、今年の日本シリーズもヤクルトとオリックスの顔合わせになった。村上宗隆の一打や山本由伸の一投はもちろんだが、試合の流れ、シリーズの流れがどのように変わっていくかも楽しみながら、熱き再戦を堪能したい。
(野球評論家)