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『情況』編集部は、いかなる意味で「卑劣」か?――「深掘りトーク 『情況』2024年夏号」への参加承諾理由を説明する

【評論】小峰ひずみ

0 本稿の前提

 本稿は『情況』編集部主催の討論会と『情況』の編集方針を批判した文章である。『情況』編集部は2024年夏号でトランスヘイター(と目される人々)の寄稿文を掲載し、物議を醸した。私は同号の編集方針(塩野谷恭輔編集長による序文)を批判した記事(「『情況』は国家か?」)を文学+に掲載した。その記事がキッカケとなり、塩野谷氏から討論会の参加を依頼され、登壇者を知らないまま、私はその討論会への参加を受諾した。以下は、その参加承諾理由の説明と、討論会への私の立場を簡潔に記したものである。

Ⅰ ノーディベート・ノープラットフォーミングの原則について

 私が本年11月13日に開催される「深掘りトーク 『情況』2024年夏号」(以下、本討論会)への参加を承諾したことについて、いくらかの人から疑義が寄せられた。端的に言えば、小峰はノーディベート・ノープラットフォーミングの原則の通り、本討論会を欠席すべきであるという批判である。
 批判者の主張は以下のようなものであったように思う。

① 差別問題についての「両論併記」や差別意見を一意見として扱う「議論」は許されない。トランスジェンダーはマイノリティであるため、マジョリティとの力関係において劣位にあり、いくら主催者や登壇者が「中立」や「フェア」や「開かれた」議論を謡っていても、実際の「議論」においては当事者がパージされがちである。
② 「議論」の場で差別主義者の主張を批判したとしても差別的な言説はパブリックに流される。そのような言説はトランスジェンダー当事者(以下、トランス当事者)が劣位にある社会構造と相まって、トランス当事者が生きる場を狭める。実際、トランス当事者の自死率はシスジェンダーのそれよりはるかに高い。
③ たしかに差別主義者によって差別は日常的になされている。しかし、今回はあらかじめ「両論併記」を行った主催者によって登壇者が選択・決定された場であり、そのような差別主義者が登壇する「開かれた議論」の場を「用意」する意義も必要性もない。

 まず、私は上記の批判を正当であると考える。だから、異議を呈さない。差別反対の立場に立つ(本討論会においてはトランスジェンダーアライという名称が与えられるだろう)私は、ノーディベート・ノープラットフォーミングという政治運動の原則を基本的には支持し、したがって私自身の行動にもその原則を適用するべきであると考える。
 では、なぜ私は本討論会への参加を承諾し、批判者の批判を踏まえてもなお、降板せずにのうのうと登壇者欄に名前を載せ続けているのか。それは、今回のトランスジェンダー特集を組んだのが左翼雑誌として1960年代に創刊された『情況』誌であり、「左翼」という立場で公に発言し本を出版している私もその一寄稿者であるという特殊な事情による。そして、本討論会で私がやりたいこと・やらなければならないと思うことがあるからだ。

Ⅱ 『情況』誌への一寄稿者としての思い

 私はノーディベート・ノープラットフォーミングの原則に基づいて、本討論会を欠席すべきかもしれない。しかし、その原則を本件でも貫くことを、いくつかの思いがあって留保した。その「思い」は以下のようなものである。

① 私は同誌に(塩野谷氏に無理言って)「戦術談義」という座談会記事を寄稿させていただいており、個人的な恩義がある。また、塩野谷氏とは一度お会いしたことがあり、(とりあえずの)交友関係がある。
② 私は寄稿先として『情況』との関係を保っていたいという思いがある(端的に、以下③などの理由で同誌は他の雑誌と一線を画すものであり優れている)。
③ 『情況』には活動家による活動報告や左派言論人の論考などが掲載されており、活動家自身が言説を提供できる場(拙著『悪口論』ではそのような場の必要を説いた)として、また、左派言論人が商業出版の場で活躍する場として、貴重である。しかし、本件は活動家や左派言論人と同誌の関係が悪化させる(一部の者は同誌に「寄稿しない」という選択を採る)だろう。そのような事態を避けるためにも、『情況』編集部に編集方針を訂正してほしいという身勝手な思いがある。
④ 最後に、同誌には「変革のための総合誌」という初期の理念に立ち戻り、「左翼」として最低限もつべき観点を蔑ろにせず誌面を編集してほしいという(一寄稿者としての)思いがある。
 なお、「左翼」として最低限もつべき観点とは、力関係への省察を蔑ろにせずに物事を捉える観点のことである。本件特集では、この観点が存在せず、マジョリティとマイノリティの力関係が考慮されていない。したがって、「左翼」の観点から編集されているとは言えない。

 そして、このような「思い」を現実的に『情況』編集部への「力」として作用させるために、私は「『情況』は国家か?」(文学+)という批判記事をネット上で掲載した。なお、同記事はトランスジェンダーについての議論にはふれず、『情況』編集部の編集方針を批判したものである。なぜなら、私はトランス当事者ではなく、トランスジェンダーをめぐる議論を展開する資格を有していないと考えたからである。また、その意志もなかった。本討論会においても、私はトランスジェンダーアライの立場から発言しようとは思わない。また、トランスヘイターへの批判を行うという立場も採らない。なぜなら、差別論の原則の通り、非当事者を自認する者が差別された当事者を代弁することは許されないと考えるからである。差別反対の立場に立つからと言って、トランス当事者の主張を代弁してよいわけではない。これは本稿の一貫した立場である。
 ゆえに、私の問題提起は次のようなものだ。

 本討論会は「トランスジェンダー特集」及びトランスジェンダーをめぐる議論を展開する資格を欠いている。

Ⅲ なぜ本討論会「深掘りトーク 『情況』2024年夏号」は、「トランスジェンダー特集」及びトランスジェンダーをめぐる議論を展開する資格を欠いているか?

 本討論会においては、登壇者を顧みるに、『情況』編集部の編集方針への批判者(小峰)とその擁護者(塩野谷・小谷野敦・谷口一平)で枠組みが構成されており、その議論が対立図式になるのは必定である。その上で、『情況』2024年夏号が「トランスジェンダー特集」を打ち出している以上、トランスジェンダーをめぐる問題について言及することになることも予想される。そうすると、トランスジェンダーアライとその批判者という対立図式が生じることになることは目に見えている。
 問題は、トランス当事者の主張とその批判者の主張が対立している状況において、トランス当事者を代表する資格を有する(少なくともそれを自称する)者が、本討論会には存在しないことである。今回の討論会はその性質上、トランス当事者とその批判者という対立図式を前提とせざるを得ないが、そのトランス当事者を代表する(と少なくとも称する)者が不在である。本討論会は対立図式を前提にしているにもかかわらず、対立図式の一極を代表する者が不在なのだ。ゆえに、対立図式を前提としたトランスジェンダーについての議論は成り立ち得ない。
 このような本討論会の前提にもかかわらず、本討論会は当初「深掘りトーク トランスジェンダー特集」と銘打たれていた(後に私が要請して変更してもらった)。「トランスジェンダー特集」と銘打たれている以上、議論はトランスジェンダーについて何がしか語ることを前提にしていたと考えられる。しかし、先ほど述べたように、本討論会はそもそもの対立図式が成り立たない以上、トランスジェンダーについて議論する資格を欠いている。このような状況でトランス当事者やアライの政治運動について何がしか批判するのであれば、それは欠席裁判という比喩で形容されるような、不当な批判とならざるを得ない。批判者がいない以上、単なる垂れ流しである。
 最大の問題は、この次に予想される展開である。トランス当事者はいない。では、登壇者はどうするか? 討論会がその資格を欠いているにもかかわらず、登壇者たちは何がしかトランスジェンダーをめぐる議論を展開することで、トランスジェンダーアライの立場に立つ私にそれを批判させ、無理やりにトランス当事者の主張を代弁させようとするだろう。そして、それに再批判を加えるだろう。トランスジェンダーをめぐる議論を展開し、私に異議申し立てを行わせることで、対立図式を作り上げる。ここに本討論会における最大の詐術がある。非当事者であり代表する権利も意思もない人間を「藁人形」に仕立て上げようと言うわけだ。端的に言って、このような戦術は「卑劣」である。
 おそらくこのような評価は塩野谷氏にとって不服であろう。たしかに氏はSNSがもたらした「不毛な争い」に満ちた世界において、「議論」「対話」を成立させたいという熟議主義的な善意を持っているように、私からは見える。私はその善意を信頼してはいる。しかし、その善意を遂行するために、私に無権利の代理人(藁人形)であることを強いるようでは、その行動は「卑劣」であると言わざるを得ない。善意が卑劣を生むこともある。求めるほど遠ざかる。『情況』編集部は、好意的に見れば、悲劇の渦中にある。しかし、悲劇を演じる者たちには、その悲劇に利用されている人間のことが見えないものだ。もし私と塩野谷氏の間に一抹の「友情」があったとすれば、氏は本討論会の卑劣な条件設定によって、この「友情」を利用し、裏切っている。

Ⅳ 本討論会がトランスジェンダーをめぐる議論を展開する資格を欠いたことに対する責任の所在

 また、『情況』は同特集を擁護しているトランス当事者を登壇させたとしても、「本討論会はトランスジェンダーについて語る資格を欠いている」という批判を免れることはできないと考える。なぜなら、本討論会が対立図式を前提としている以上、本特集について批判的なトランス当事者(少なくとも有権代理を自称するアライ)が登壇する必要があるからだ。そのような人材を召喚できない以上、本討論会はトランスジェンダーをめぐる議論を展開する資格を有さない。(なお、有権代理を自称するアライが登場した場合、なぜ「ノーディベート・ノープラットフォーミング」の原則を捻じ曲げたのかについて詰問され、トランス当事者を代弁する資格を問われるだろう)。
 その上で、現状の『情況』編集部の対応を見る限り、本特集に批判的なトランス当事者は、本討論会への登壇を承諾するとは思えない。なぜなら、『情況』編集部は「ノーディベート・ノープラットフォーミング」という原則を採用するトランス当事者やアライの政治運動家や研究者を説得しうる言論を公にできていないからである。つまり、本討論会を成り立たせるための土台となるべき思想がない。「ノーディベート・ノープラットフォーミング」という行動をトランス当事者やアライが採る理由は何かと吟味した上で、詳細な議論を展開しなければ、かかる人々の協力を得ることはできないだろう。しかし、『情況』編集部を代表している塩野谷氏の本特集冒頭に掲げられた序文に、そのようなトランス当事者やアライの行動への(わずかな批判はあれど)詳細な考察は存在しない。また、その後、そのような考察を『情況』編集部が公に発表した(少なくともしようとした)形跡もない。そのような姿勢では、トランスジェンダー差別に反対する政治運動家や研究者からの信頼は望むべくもない。したがって、本討論会はトランス当事者を代表する(と自称する)者が不在であるのは必然であるといえる。
 言うまでもなく、この事態を招来させた責任は、詳細な言論を公にしなかった『情況』編集部にある。断じて討論会への出演を断った者に責任があるのではない。「ノーディベート・ノープラットフォーミング」は多くの人々が採用する正当な立場である。たとえこの採用が正当でなかったとしても、現在の言論を取り巻く条件であることは疑いようがない。この条件は同号の前提として共有されており、少なくとも塩野谷氏がその条件の存在を知っていたことは容易に確認できる(本特集序文を参照)。知った上での無策である。目に見える形で努力を行っていた形跡もない。ゆえに、本討論会がトランスジェンダーをめぐる議論を展開させる資格を有しないという事態を招来させたのは、『情況』編集部の責任であると私は考える。間違ってはならないが、本討論会の主催者はトランス当事者やアライの人々ではなく、『情況』編集部なのだ。

Ⅴ 討論会のタイトル変更について

 以上のような判断に基づき、私は先日塩野谷氏に本討論会の題名を「深掘りトーク トランスジェンダー特集」から「深掘りトーク 『情況』2024年夏号」に変更するよう要請した。変更しない場合は、降板するつもりであった(塩野谷氏にはそう伝えている)。そして、変更していただいた。手間を惜しまなかった塩野谷氏には感謝しているが、この変更は本討論会の性質上、当然の変更である。
 なぜ『情況』編集部は「トランスジェンダー特集」というテーマ設定で本討論会を開催しうると考えたのか?このようなテーマ設定であれば、トランスジェンダーをめぐる議論を公に(誰もがお金を払えばアクセスできる状況において)展開する資格のない状態で、トランスジェンダーをめぐる議論を展開することになる。そう考えなかったのか? このような基本的な問題点に気づきさえしなかったのか? この点をまずは『情況』編集部に詰問したい。
 そして、私以外の登壇者が、本討論会の手続きレベルでの明確な破綻を前にしてなぜ無批判でいられたのかも疑問である。本来、谷口一平・小谷野敦両氏はトランスジェンダーに関する両氏の論考について議論を展開するためにも、『情況』編集部に「もっとまともな奴(当事者あるいは自称・有権代理人)を呼べ。かかる人々の信頼を勝ち取るような言論を公にせよ」と迫るべきではなかったか。『情況』編集部にそのような批判を行わなかったとすれば、それは登壇者の怠慢だと言わざるを得ない。
 いずれにせよ、本討論会はトランスジェンダーをめぐる議論を展開する資格に欠く。したがって、本討論会で唯一可能なのは、「『情況』は国家か?」(文学+)で行った通り、「両論併記」の名目でトランスヘイター(と目される)の寄稿文を掲載した『情況』編集部の編集方針である。おのずからそこに絞られる。私は同誌の編集方針を議論する限りで応答するしかない(議論をそこに絞るしかない)と考えている。たとえ、『情況』2024年夏号がトランスジェンダー特集を組んでいようと、議論の前提が整っていない以上、同特集の議論は不可能である。この事実は変わらない。むしろ、この特集を企画した思想こそが問われる。ゆえに、塩野谷氏だけではなく『情況』編集部全員の登壇を私は望む。一対五でも一対十でもいい。これが本討論会における私の基本的な立場であり、『情況』編集部への要望である。

Ⅵ 本討論会の条件設定はいかなる意味で「卑劣」か?

 本討論会において、私は『情況』編集部に人選を一任した(「ひとり連れてきてもいいよ」と言われたが友達がいないので断った)。泣き言を言えば、一任しても『情況』編集部はもっとマシな人選をしてくると思ったのだ。その程度には塩野谷氏の人柄なり善意なり『情況』の理念なりを信じていたわけである。しかし、結果的に、『情況』編集部は、トランス非当事者(小峰)にトランスヘイター(と目される人物)たちをあからさまにぶつけて、ヘイターVSアライ(しかも無権代理。小峰がトランス当事者を代弁できるなどと誰が考えるのか)という対立図式を作り上げようとする条件設定を行った。たしかに勝手に信じた方が悪い。しかし、この条件設定は、前節で述べたように、「卑劣」である。私がいまよりもうちょっとアホで、このような人選に暗に仕掛けられた「戦術」を見抜けなかった場合、編集部はいったいどうするつもりだったのか? のこのこ出てきたアホを登壇者が寄ってたかって批判し、「何お!」といきり立ったアホをトランス当事者の代弁者に仕立て上げ、その資格を欠落させた状態でトランスジェンダーをめぐる議論を展開し、「議論成立、討論会は大成功、小峰は話の分かるやつじゃ」とでも私を賞賛するつもりだったのか? 議論の成立を重視するその善意に反して、『情況』編集部は私に藁人形の役割を押し付けるような人選を行った。卑劣である。そうみなさざるを得ない。
 本討論会はトランスジェンダーをめぐる議論を展開することはできない。前提部分が整っていない本討論会においては、いかなるトランスジェンダーをめぐる議論も無条件に「卑劣」である。トランスジェンダーについて「論理的観点からの」「中立な」「純粋学問上の」(何でもいいが)議論を展開させ、私にそれを批判させることで、私をトランス当事者の無権代理人に仕立て上げるという戦術は、何度でも言うが、「卑劣」である。ゆえに、私は本討論会における一切のトランスジェンダーをめぐる議論に対して、(批判ではなく)抗議によって答えるほかない。それは本討論会の条件設定そのものが「卑劣」であるからだ。

Ⅶ 「私たちの言説のどこが差別なのか(証明せよ)」と問う戦術の卑劣さ

 その上で、他の登壇者からは「私たちの言説のどこが差別なのか(証明せよ)」という問いが提出されることが予想される。むろん、本稿は谷口・小谷野が「トランスヘイター」とトランス当事者やトランスジェンダーアライからみなされていること(少なくとも小谷野の寄稿文には自らが「ヘイター」と目されているという記述がある(九九頁))を所与の前提とした上で論述されている。
 そこで私は谷口・小谷野の言説のどこがどう差別にあたるのか証明を行わなければならないかのように思える。論理的にはその証明が必須であることは私も認める。しかし、私はそれを証明することを拒否する。なぜなら、「私の言説のどこが差別なのか」という問いとそれに対する応答(証明)によって、私はヘイターVSアライという『情況』編集部が用意した対立図式の土俵の上に乗せられることになり、これまた無権代理を行うよう(藁人形になるよう)強いられるからだ。このような問いそのものが「卑劣」な戦術の一環であることは明白である。
 したがって、私は、本討論会においてのみ、谷口・小谷野の言説が差別的であると目されていることを前提とする。そして、本討論会やそれに関わる文書において、私は両氏の言説が差別的であるという論証を拒否する。なぜなら、本討論会はその証明を行う場としての資格を欠いているからである。証明の場が適切な手続きによって構成されていない以上、私に立証責任はない。その証明に代えて、本討論会そのものが「卑劣」な条件設定で行われているため、両氏の言説が差別的であることの証明もまた「卑劣」な戦術の術中にはまることになるという構造を指摘すれば足りると考える。
 いずれにせよ、谷口・小谷野というトランスヘイターと目される人々を討論会に呼び、対立図式に持ち込んで私に無権代理を行わせようとする『情況』編集部の無垢な方針そのものが「卑劣」である。ゆえに、「私の言説のどこが差別なのか(証明せよ)」という問いに対しては、このような本討論会を主催した『情況』編集部の「卑劣」さと、その土俵に乗っかってのうのうと私に立証責任を負わせようとする架空の登壇者の「卑劣」さと、アホがいきり立って墓穴にはまる様子を見に来た観覧者の「卑劣」さとを、すなわち、本討論会そのものの「卑劣」さを指摘するにとどめる。(なお、架空の登壇者は谷口・小谷野のことではない。両氏はまだ私にいかなる証明も迫っていない。しかし、討論会ではそのような問いが放たれることが予想されるから釘を刺しておいた)。
 それでは、他の登壇者は何をどうすればいいのか?(これは小谷野氏からいただいた質問であるので答えておく)。端的に言って、それは私の関知するところではない。この「卑劣」な条件設定を行った『情況』編集部に問い合わせるべきである。氏は問いの宛先を間違えている。そして、本討論会の前提が成立しなかった責任をノーディベート・ノープラットフォーミングという立場を採用する人々に帰するという「卑劣」な戦術と同様に、この問いの送達ミスもまた「卑劣」であると私は考える。まるで一登壇者にすぎない私に、この討論会が不成立であることの責任があるようではないか? しかし、その責はトランス当事者やアライの信頼を勝ち取りえなかった『情況』編集部に帰せられるべきである。
 その上で、私が、本討論会の壇上で、両氏に聞きたいことは一切ない。単純に、両氏の論考はトランスジェンダーに関するものであり、そして本討論会はその議論を展開する資格を欠いているからである。なので、私は論考を通して、両氏の主張を読み取るという討論会の下準備を怠るつもりである。この態度が、率直に言って無礼であることは承知している。しかし、話すことができないことについて丹念な準備をしておくというのも、また滑稽ではないか。

 それでは、なぜ小峰は本討論会を降板しないのか? という疑問がトランスジェンダーアライやトランス当事者の方々から発せられるだろう。そのような疑問に対しては、やりたいこと・やらねばならないことがあるからだと答える。

Ⅷ 私が本討論会を降板しない理由

 上記の理由により、私はトランスジェンダーをめぐる議論を展開する資格を有していないし、本討論会についても同様である。本討論会において、トランスジェンダーをめぐる議論は前提部分が整っていないがゆえに遮断される。では、なぜ小峰は降板しないのか? それは、本特集において、『情況』編集部は「両論併記」の名目で力関係を蔑ろにした編集を行ったが、『情況』編集部がふたたびその理念に立ち戻り、「左翼」がもつべき最低限の観点(力関係への省察を欠かさないという観点)を蔑ろにせずに編集してほしいという思いを勝手に抱いているからである。したがって、この「思い」を実現するためにも、『情況』編集部の編集方針に以下の観点から批判を加えたいと考えている。

① 「両論併記という名目で差別的な言説を掲載することを正当化する根本的な言説」を批判せねばならない(「『情況』は国家か?」で行った批判である)。トランスヘイター(と目される)の寄稿文を掲載するに至った『情況』の編集方針(塩野谷序文に現れている)について異議申し立てを行いたい。具体的に言えば、「差別はないほうがいいので、差別的な言説について掲載するかしないかで言えば、しない方がいいと思うが」(十二頁)という責任逃れの留保こそが問題である。トランスジェンダーについて議論する資格を私は持っていないが、この差別を是認する根本的な言説については、『情況』寄稿者として公に批判する必要があると考える。
② 政治運動や活動家をやり玉にあげてはばからない言説を批判せねばならない。同特集には、「過激な活動家」(六七頁)とか「[すぐに「差別だ!」と言ってくる]一部の活動家」(三六頁)というレトリックで、活動家を異常なものとしてつるし上げ攻撃している。トランス当事者やアライの政治運動に限らず、このような形で異議申し立てを行う政治運動や活動家を攻撃するのは、右翼・警察官・一般市民の常套手段である。このようなレトリックによる政治運動や活動家への攻撃をそのままに批判検討することなく掲載するようでは「変革のための総合誌」とは言えない。断固として抗議したい。いやしくも「変革のための総合誌」を名乗るならば、原則的には「異常」の側につくべきである。もしつかないにしても、このような常套句を見た瞬間に怪しむ反射神経を身に着けるべきである。
③ 言葉を濫用した論文をそのままに掲載していることを批判せねばならない。具体的には抗議運動を「集団性暴力犯罪」(一七一頁)と何の手続きもなく法学上の議論もなく短絡的に形容した論文を訂正せずにそのままにしている。また、「私たちは99パーセントだ!」という階級的スローガンをマイノリティ問題に適用するという根本的な詐術を見抜けていない(一七三頁)。
④ 引用せずに批判を行っておりクリティークの基本を欠いていることを批判せねばならない。具体的には、ジュディス・バトラーの引用を欠いた上で、それを批判している(九四頁)。また、「『情況』は国家か?」でも触れたので繰り返さないが、X上の言説を引用せずに批判している。いかに内輪向けの言説かが実証性の欠如(もはや実証性を担保しようとする意思すらない)により暴露される。

 本討論会で私が批判したい(そして、批判しうる)のは、『情況』編集部のその言論に対する姿勢である(特に①・②を見過ごすわけにはいかない)。トランスジェンダー特集でやる必要はないが、トランスジェンダー特集でそのことが露見したので、そこに対して応答したい。そして、幾度も述べるように、本討論会は「トランスジェンダー」について議論できない以上、この点に議論を絞るしかないと考える。それ以外のいかなる言説も、本討論会からは除外されるべきである。むろん、幾度も述べるように、本討論会がそのような前提でしか成り立たなかった責任は、『情況』編集部にある。ノーディベート・ノープラットフォーミングという立場を採用するトランス当事者やアライへの敬意を欠き、かかる人々に対して説得的な議論を提示できなかったし、その努力もしていなかったからだ。これが基本的な私の立場である。
 ゆえに、本討論会の進行役が上記の除外を行わない場合、その人物に進行役としての権限を、私は認めない。すなわち、可能ならば、本討論会を妨害する。少なくとも、登壇者として抗議する。それは『情況』編集部の条件設定が、設定者の善意にもかかわらず、卑劣だからである。

 しかし、トランス当事者の人・トランスジェンダーアライの立場に立つ人々からは、そのような小峰の編集部批判を討論会という「開かれた」形で行う必要はないのではないか?という疑問があがるだろう。それに対しては以下のように答える。

Ⅸ 討論会で行う必要はないのではないか?

① まず、「討論会での「議論」は、すでにプラットフォーム上に流布されているヘイトを公認したことになる。わざわざ「用意された場」で「議論」する必要があるとは思えない」(Ⅰ②)という考えがあるだろう。それについては、次のように応答したい。

 今回は有料の場での議論である。上記の考えと違って、私は「用意された場」(端的に言えば有料)だからこそ拡散可能性が低く影響が限定的であり、ネット上の議論に巻き込まれず編集方針の問題点を議論することができるだろうと考えた。用意されているからこそ、編集方針について語ることができるだろうと考えたのである。逆に言えば、無料で拡散可能性の高い場なら参加しなかった。差別的な言説が発話者から主張された場合、広く流布する可能性があるからである。また、開かれた(お金を払えばアクセス可能な)議論の場だからこそ、『情況』編集部に次の対応を迫ることができると考えた。

② 「トランスヘイターが「議論に値する」人物だという印象を与えた」ことになるのではないか(Ⅰ③)?これについては以下のように応答したい。

 まず、私としては今回の討論会で登壇者たちが「議論の手続きを欠いており、お話にならない」ことを批判したいと考えている(たとえば、塩野谷氏はX上の言説を勝手に作り上げて批判し、小谷野氏は一切引用せずにバトラーを批判している(九四頁))。手続き論の段階で「議論に値しない」。今回の討論会も同様である。そして、雑誌において議論に値しないものをそのままに掲載し、討論会において登壇者が議論展開の資格を欠いていることに無自覚であった『情況』編集部をも批判したいと考えている。ただ、これは差別論の観点からの批判ではない(ゆえに、ノーディベート・ノープラットフォーミングという立場は取らない)。

 以上により、私はトランスヘイターを「議論に値する」と掲載することになった雑誌の編集方針(土台)を直接に公で批判せねばならないと考える。直接に、公で、である(「思い」を「力」にするための手段)。ゆえに、ノーディベート・ノープラットフォーミングの原則の適用を、個人的な「思い」により、留保した。その上で、討論会への参加を承諾した。

Ⅹ 『情況』はいかなる原則を忘れたか?

 最後に、一言だけ述べておきたい。『情況』は「変革のための総合誌」と題されており、歴史上「左翼」の雑誌である。「左翼」は力関係への省察を欠かない観点から物事を捉えるものである。ゆえに、「左翼」は愚直に中立な立場やフェアな議論というものに疑義を突き付けてきた。そして、その愚直さゆえに「中立」なるものが幅を利かせる日本においては、劣勢に立たされている。にもかかわらず、『情況』編集部はその愚直さを忘れ、本特集でマジョリティとマイノリティの力関係の差異を考慮せずに「両論併記」的な構成を行った。ここに『情況』編集部の編集方針の欠陥がある。
 加えて、本特集に寄稿した人々の一部や『情況』編集部は、権利擁護のキホンのキをわきまえていないように思う。権利擁護には順序がある。まず、権利を踏みにじられている人々の権利を擁護する。その上で、「公共の福祉」をめぐって抗争する。このような順序である。私は法を学び始めた人間に過ぎないが、ローマ法を起源にもつ法システムは、当事者間の力関係をできるだけ水平化するために、力関係において劣位にある者をまずは保護し、その上で訴訟を行うという段階を踏むことを是とするはずである。いきなり「お前が悪い」「お前に権利はない」と裁きに踏み込まない。「生存権が踏みにじられている」と声を上げる人間をまずはしっかりと擁護し、いかなる実力行使からも守る。その上で、じっくりと「懸念」「不安」「公共」「自由」をめぐる抗争を行うものだ。これは法学を学び始めた段階で徹底的に叩き込まれる。
 しかし、本特集は真逆のことを行っている。トランス当事者がトランス当事者として生きていく権利が確立されていない段階で、その権利運動を「過激」「常識に反する」「暴力」という常套句で抑圧する寄稿文が存在する。これらの執筆者はみな常識で人を斬る即席裁判官である。だから、多数派に肩入れする(佐藤悟志は「私たちは99パーセントだ」というスローガンを階級問題ではなくマイノリティ問題に適用し(一七三頁)、白井聡はトランス当事者の権利を擁護していては選挙に勝てないと嘆く(四四頁))。多数派の多数派による多数派のための言論である。しかし、まずは無条件的に少数者の権利擁護の必要があるのだ。その権利擁護があってから抗争が始まる。これが原則である。この順序に対する意識を根本的に欠落させている。基本をわきまえていない。
 むろん、『情況』誌は法学雑誌ではなく、特集参加者は法律家ではない。しかし、権利(Recht)擁護に関しては、法学の原則が妥当するだろう。この法学の原則と「左翼」の原則は一致すると私は考える。『情況』誌が忘れたのは、力関係において劣位にある者の側につく反射神経、「生存権が踏みにじられている」という声があればとにもかくにもその権利を擁護するために言論を展開する「左翼」の瞬発力である。願わくば、その反射神経や瞬発力を取り戻してほしい。他の編集部員は存じ上げないが、メールなどでの応答からかんがみるに、塩野谷氏にはそれが可能であると私は思う。なるほど塩野谷氏は私に卑劣な行動を採ったには違いない。しかし、それは善意の産物であるはずだ。少なくとも、私はそう勘ぐっている。

▶小峰ひずみ 1993年生 大阪大学文学部卒 「平成転向論 鷲田清一をめぐって」で第六十五回群像新人評論賞優秀作。著書に『平成転向論 SEALDs/鷲田清一/谷川雁』(22年5月)、評論に「人民武装論 RHYMESTERを中心に」(『ことばと』vol.6、22年10月)、「大阪(弁)の反逆 お笑いとポピュリズム」(『群像』、23年3月)、「議会戦術論 安倍晋三の答弁を論ず」(『群像』24年7月)がある。24年8月に『悪口論 脅しと嘲笑に対抗する技術』を刊行。

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