終わることから始めよう。
東京在住の女性A様から「坂爪さんと絶望について話をしたいから、時間があったら一緒に仙台までランチを食べに行きませんか」と連絡をいただいた。私の正しい使い方である。絶望。興味深いテーマである。金も家も仕事も彼女も社会的な信頼も失い、一見どん底に落とされた時に私の人生はブレイクスルーを果たした。表面的には絶望に見えることが、新しい人生への架け橋になることがある。生がギフトなら、死もギフトだと思う。
現在はモデルをやっている美しい女性M様に会った。複雑な家庭で育ったM様は、高校の頃に家出して、家がないことを隠しながら高校に通った。本当にお金がない時はカップルを狙った。男の人に「帰りのバス代がないから貸して欲しい」と言えば、男の人はカッコつけたがるから一千円くらいは出してくれた。夜、居場所がないまま街を彷徨っている時の心細さは相当なものだった。だから、行くあてもなく彷徨っている坂爪さんに、過去の自分を重ねて連絡をしてしまったと言った。
お金がないことがコンプレックスだったから「大人になったら絶対金持ちと結婚する」とM様は誓った。誓いの通り、M様は金持ちの男性と結婚した。豪邸に住み、高級車を乗り回したが、なんだこんなものかと思ったら、虚無感に襲われた。このまま一生を終えるのは嫌だと思い、離婚して、再び無一文になった。一人きりではなく、今度はこどももいる。本当にお金がなくて困った時に、M様は神社に行った。今、このお金がなくなったら本当にやばいというタイミングで、M様は賽銭箱に一万円を入れた。自力を放棄して、神様にお願いをした。神様、どうか力を貸してください。
数日後、M様に奇跡のような話が舞い込んだ。それを契機にM様はモデルになった。モデルになった時に、小さな頃の夢がもう一つあったことを思い出した。お姫様になりたかった。家を失い、野良猫のように生きていたが、小さな頃から「お姫様になりたい」と思っていた夢を思い出した。全部を失うという絶望を経なければ、この夢を思い出すことも、夢が現実となることもなかった。絶望。興味深いテーマだ。普通、絶望は避けるべきものとして扱われる。だが、強制的な断捨離のように、絶望を経ることで新しい自分に生まれ変わり、自分でも驚くような自分になることがある。
私は、私の中に業のようなものを感じる。平穏に生きることを拒否する心を感じる。苛烈に生きなければ、己を許せない、そんな気持ちを感じる。安らかな休息は、願うところではないと感じる。くだらないことに生命を張る、悪ふざけの血を感じる。自由に生きるということは、飢える自由、野垂れ死ぬ自由と隣合わせであることを感じる。おとなになりきれない、餓鬼の魂を感じる。虚無も絶望も含めた自由を謳歌したいのだと感じる。これをやれば生きていけると言うことをやった途端、死んでしまう自分を感じる。意味がないから面白い。答えがないから面白い。生と死が表裏一体の関係ならば、共に生きるということは、共に死ぬということだ。どうせ死ぬのならば、俺と一緒に死んでみないか。そんなことを思っている。
おおまかな予定
11月9日(土)宮城県仙台市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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