中日、日本ハムで活躍し、引退後は日本ハムの監督も務めた野球評論家の大島康徳(おおしま・やすのり)さんが6月30日午前、大腸がんのため都内の病院で死去した。70歳だった。一発長打が魅力の大型打者で、43歳まで現役生活を送り、その後は古巣の監督、2006年の第1回WBCでは日本代表の打撃コーチを務めた。また、NHKの解説者としても人気を博した。通夜と葬儀・告別式は故人の遺志により近親者のみで行われた。
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入団8年目の76年。シーズンの代打本塁打記録を樹立したものの、当時の中日・与那嶺要監督が「好調が5試合どころか3試合もキープできない」と嘆いた波のある打撃が足を引っ張り、大島さんはなかなか定位置を確保できなかった。
しかし、一つの“幸運”がレギュラーに押し上げる。それまで三塁を守っていた島谷金二が、この年のオフ、阪急に移籍。代わりに加入した内野手の森本潔が、77年の開幕直後に右手薬指を故障したのだ。「もう代打だけで遊ばせてはおけない」(与那嶺監督)と苦肉の策で起用した結果、打つわ打つわ。打率3割3分3厘、リーグ4位の数字を残した。
そこから勝負強い打撃を売りに、こつこつ安打を重ねた。絶頂期の80年。交通事故で一時は左目失明の危機に見舞われたものの、わずか1か月で復帰するタフさを見せた。日本ハムには37歳という年齢での移籍だったが、勝負強さを高田繁監督に買われ、4番を任された。豪放な外見に似合わず研究熱心であり、相手投手のクセを読み取る技術は天下一品―とも。不断の努力で、2204本の安打を積み重ねた。
巨人・長嶋茂雄の引退試合で、ミスターに相手チーム代表として花束を渡したのは、若き日の大島さんだった。監督時代にはこんなエピソードがある。投手交代のためにマウンドへ行ったが、集まってきた野手を交えて談笑。交代を球審に告げないまま、ベンチに戻ってしまった。そのことを指摘されると、大島さんは舌をペロリ。マウンドのピッチャーに「(そのまま)行け!」とジェスチャーで伝えたシーンは、後年まで「珍プレー」として取り上げられた。