堅守支えた名参謀 阪神タイガース、天地を行く(2)
軌跡
阪神が日本一となった1985年から3年間、一軍守備コーチを務めたのが「なにわの名参謀」と呼ばれる一枝修平さん(74)だ。吉田義男監督が決断した真弓明信選手の内野から外野への転向を心配していなかった。移籍前のクラウンライターライオンズ(当時)で、外野手経験があるのを知っていたからだ。
優勝メンバーの内野手の守備はどうか。「一塁手のランディ・バースはあまり動かないが、グラブさばきがうまかった。三塁手の掛布雅之は飛び込んで捕球した」と評価する。岡田彰布二塁手は足のけがの影響が残り「シーズン当初、足を引きずり気味だったが、6月からしっかりしてきた」と冷静に見ている。
西武との日本シリーズで第1戦から3試合連続の本塁打を放ったバース選手は第2戦で守備でも活躍した。辻発彦選手のスクイズをダッシュして素手で捕り、秋山幸二選手を本塁で封殺した。「辻の打席でスクイズをやる可能性があると事前のミーティングで話していた。(あの守備は)大ヒットやった」と笑う。
87年、成績不振で吉田監督が解任となり、辞任した。「一蓮托生(いちれんたくしょう)内閣」といわれ、多くのコーチは行動をともにした。
難波出身で子供の頃、南海ホークスのファンだった。本拠地の大阪球場の裏口から勝手に入って観戦していたという。阪神と並ぶ人気球団だったが、88年にダイエーへ売却され、球場もやがて取り壊された。