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【古代最大の氏族】秦氏とは?秦氏の正体

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歴史本プレゼンチャンネルのきーです。
今回は、古代史最大の氏族である秦氏について迫っていこうと思います。

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みなさんは秦氏という氏族をご存じでしょうか?
秦氏とは、古代日本において有力な渡来人系氏族です。
最先端の技術を有し、モノづくり民族である日本人の原点ともゆうべき超ハイテク氏族でありながら、表舞台には登場しない謎の氏族が秦氏です。

今回は古代最大にして謎多き氏族である秦氏について学術的な観点から深堀していきます。

YouTube動画で見たい方はこちら!

https://youtu.be/F-wblD7a6Yk


秦氏とは?


秦氏が古代最大と言われる所以は、古代の日本において最も多くの人口と広い分布を誇る氏族だからです。


6世紀前半の欽明天皇の時代には、秦氏配下の民を含めて17万人の人口ボリュームを抱えていたともいわれ、当時の人口の約5%にあたる文字通り古代最大の勢力を誇っていたのが秦氏です。

そんな秦氏は渡来系の氏族です。
では秦氏がいつ日本列島にやってきたか?を確認できるのは『日本書紀』や『古事記』いわゆる『記・紀』の記載です。

『記・紀』には、秦氏が倭国に来たのは15代応神天皇の時代だと記載されています。

弓月君と秦氏


秦氏の渡来伝承といえば、「弓月君」を思い浮かべる方も多いかもしれません。
しかし『古事記』では、「弓月君」の記載は確認できず、大陸から来たとされる人々の伝承が語られる中で、同じく渡来系氏族の漢氏とともに秦氏の渡来伝承はずいぶん後で、扱いも簡素です。
『古事記』では、名前もどこから来たか?も記されておらず、祖先伝承も簡素です。

一方『日本書紀』では、

  • 応神14年条に弓月君という人物が、126の県から多くの人々を連れて移住しようとしたこと

  • 倭国に帰化しようとしたが、新羅人が妨害するため民はみな加羅国に留まっているので、葛城襲津彦(カツラノギソツヒコ)を遣わして弓月の民を加羅から招き寄せようとしたが3年帰ってこなかったこと

  • 天皇が平群宿禰(ヘグリノスクネ)らを派遣し、新羅の妨害をやめさせ、その結果、葛城襲津彦は弓月の民を率いて帰国したこと

が書かれていますが、『日本書紀』には弓月君が秦氏の祖先であるとは書かれていません。

では『弓月の君が秦氏の祖』という通説はどこから生まれた話なのでしょうか?

それは『新撰姓氏録』から確認することができます。
『新撰姓氏録』では、秦氏の系譜を記載し、太秦公宿禰(ウズマサノキミノスクネ)は秦の始皇帝の子孫であるとしています。

太秦公宿禰(ウズマサノキミノスクネ)とは、秦氏の本宗家ともいえる家柄です。
『新撰姓氏録』では、その出自を秦の始皇帝の子孫であるとし、そして「弓月王」の一名をもつ融通王が応神天皇14年に127県の百姓を率いて帰化したのが秦氏のはじまりとしています。

≪系図≫
秦の始皇帝―〇-〇-考武王-功満王-融通王(一名弓月王)

秦氏はどこから来たのか?


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そんな秦氏はどこから来たのか?定説ははっきりしていません。

始皇帝の秦から氏の名前をとっていることを重視すれば、中国大陸からやってきたことになります。

秦の名前が秦の始皇帝からではなかった場合、朝鮮半島東部にある「波旦」の地名に由来している可能性もあり、そうなると新羅方面からやってきたことになります。

しかし『日本書紀』には、弓月君は百済から移住した。と記録されています。

秦氏の渡来の経緯については、様々な説があり確定していませんが、秦氏は古代史最大の人口を誇る氏族です。
そこを考えると、単一の血族のみが移住したとは考えにくいですし、移住の時期もバラバラだったと考えられます。

秦氏を束ねていた秦氏本宗家が、中国を祖国とする秦の遺民を称しているだけで、他の傍系の秦氏は他の地域から様々なタイミングでやってきたのではないでしょうか?

秦氏とはだれなのか?


では具体的に秦氏にはどんな人物がいるのか?を見ていきましょう。

秦氏の中で一番有名人といえば、秦河勝でしょう。
秦河勝とは、6世紀に聖徳太子の側近として活躍したことで有名です。
秦河勝については、別の動画で詳しく紹介する予定ですのでそちらの動画をご覧ください。

秦氏の祖


秦河勝は、秦氏の直系であるとされていますが、では直系の祖となる人物は誰でしょうか?

『日本書紀』に記されている応神天皇の時代に渡来したとされる弓月君が伝説上の始祖という存在です。
事実上の始祖とされるのは、秦酒公(はたのさけのきみ)という人物です。

『日本書紀』では、雄略天皇に忠誠をつくし、寵愛を受け、庸や調といった税として絹などの貢納し、彼らの納める品々は朝廷にうず高く積み上げられ、これにちなんで「ウズマサ」の姓(カバネ)を与えられる。と記載されいます。

秦氏の本拠地として有名な山背国の太秦の由来として有名なこのエピソードは、秦酒公(はたのさけのきみ)のエピソードです。

秦大津父と欽明天皇


『日本書紀』には秦酒公(はたのさけのきみ)の1~2世代後と思われる欽明天皇のエピソードに秦大津父(ハタノオオツフ)という人物が登場します。

欽明天皇といえば6世紀半ばに即位した大王であり、越の国から即位した第26代継体天皇の子供にあたる人物です。

欽明天皇のエピソードとは、
欽明帝が即位する前の幼いころ夢の中で「秦大津父という者を寵愛すれば、大人になった後あなたは必ず天下を治めることができるでしょう」と夢告(ムコク)を受け、早速この名前の人物を探させたところ、山背国深草に同じ名前の人物が発見されました。

幼き頃の欽明天皇は、秦大津父を側近に登用すると、欽明天皇のもとには多くの富が持たされました。
その富のおかげで欽明天皇は即位することができ、即位に至って秦大津父を大蔵の宮司に任じた。」というエピソードです。

このエピソードの注目すべきところは、2つあります。
一つ目は、秦大津父は欽明天皇に召し出されたために富を増やしたのではなく、秦大津父の富で欽明天皇を富ませたということです。
それだけ秦氏には富があったことを読み取ることができます。

2つ目は、秦大津父には「姓」が存在しません。
「姓」がついていないというのは、それまで王権との関りがなかったことを意味します。

1~2世代前の秦酒公には「キミ」という姓があるにもかかわらず、そのあとの秦大津父にはなぜ姓がないのでしょうか?

『広隆寺来由記(コウリュウジライユウキ)』にみえる秦氏の系譜には、秦の始皇帝から秦河勝までの15代の直系の人名が記されていますが、”秦酒公”の名前はあっても、大津父の名前はありません。

雄略天皇の時代に活躍した秦酒公~聖徳太子の時代に活躍したの秦河勝の間にあるべきの”秦大津父”の名前はなぜないのか?

その理由を古代史を専門としている歴史研究者の水谷 千秋氏は、秦大津父は秦氏の直系ではなかったのではないか?とし、秦河勝に代表されるような直系の秦氏は雄略天皇の頃より王権とのつながりを持っていたのと比べて、傍系である大津父は王権とは疎遠だったのではないか?としています。

直系秦氏の本拠地は葛野(かどの)今の京都市の嵐山の辺りですが、大津父は深草であり今の京都市伏見の辺りで、傍系にあたる深草の秦氏は王権とのゆかりが薄かったのかもしれません。

しかし傍系である秦氏ですら、欽明天皇を王位につかせることができるくらい財力があったということは、秦氏が豊かで大きな勢力であったことを伺わせます。

秦氏が残した功績とは?


古代日本最大の勢力を誇りながら、歴史の表舞台に出てこない秦氏。

そんな謎が多い秦氏の功績を紹介しましょう。

秦氏と機織り


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まず有名なのは、機織りの技術を日本に伝えたということでしょう。
機織りは秦氏が伝えたから”ハタオリ”と呼ばれるとも言います。

ウズマサの地名の由来となった秦酒公のエピソードは造作の可能性が高いですが、機織りを他の氏族よりも得意としたために生まれた伝承なのでしょう。

古代最大の人口を有した秦氏の技術力は、機織りだけではありませんでした。

土木治水技術で京を作る


秦氏は治水のプロ集団でもありました。
京都の桂川は古代より決壊を繰り返しており、決壊すれば修復も大規模になり地元の民だけではどうしようもありませんでした。

古代にこの桂川の治水工事にあたったのが秦氏であり、葛野大堰(カドノオオイ)とよばれる川の流れをせき止める大きな堰(セキ)を作ったのが秦氏です。

葛野大堰のおかげで、大河はせき止められ、用水路を通すことができ、収穫が数倍にもなったと伝わっています。

この治水工事の結果、葛野は豊かさを増し、のちに長岡京や平安京造営へと繋がる財力の蓄積につながりました。

芸能の祖


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古代史最大の人口と分布を持つ秦氏の後継を称する氏族も幅広く、能楽の大成者である世阿弥も秦氏です。

世阿弥が残した『風姿花伝』には、世阿弥のもとの名を”秦元清(ハタノモトキヨ)”と記しています。

世阿弥は『風姿花伝』にて、能楽の始まりは神代の天岩戸神話に求められるとし、能楽の創始者は秦河勝だと記しています。

『風姿花伝』では、”天下に少し障りがありしとき聖徳太子が秦河勝に命じて行わせた「六十六番の物まね」が「天下が治まり国静かなり」につながったと伝え、能楽の起源を世の静謐を目的として、聖徳太子が秦河勝に命じたことに求める考え方を記しています。
この伝承は、『記・紀』にも、『新撰姓氏録』にもない伝承です。

京への遷都立役者


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そして秦氏の功績として今でも脈々と受け継がれているのは、1000年の都である京都を作り上げてたことです。

奈良時代末期、女帝である孝謙天皇が崩御されると光仁天皇を挟み、桓武天皇が即位します。

都を奈良から京の長岡京、平安京に移したとされる桓武天皇の功績は、秦氏による支援がなければ実現しえないことでした。

長岡京遷都の最高責任者は、桓武天皇の立太子を後押しした藤原百川の甥である藤原種継であり、種継は百川から桓武天皇の側近の座を受け継いでいました。

そして平安京遷都の最高責任者は、藤原四家の一人藤原房前の孫にあたる藤原小黒麻呂です。

長岡京遷都の責任者である藤原種継と平安京遷都の責任者であった藤原小黒麻呂はともに、妻が秦氏です。

秦氏と藤原氏…当時の観念からいえば釣り合わない婚姻のように思われますが、秦氏を外戚とする種継と小黒麻呂がそろって桓武天皇によって抜擢され、長岡京と平安京の造営の重要な任務を任されています。
この人選は、決して偶然ではないでしょう。

要するに、藤原氏の中で山背国の有力者秦氏と婚姻関係のある者、強力なコネクションがある者が特に選ばれて長岡京・平安京への遷都事業の要職についたということです。

逆にいえば、長岡京・平安京造営は秦氏とコネクションのある人物でなければ務まらなかったともいえます。

10世紀中ごろ平安期の天皇である村上天皇の日記には、”平安京の大内裏はもとは秦河勝の邸宅があったところに建てられたもので、紫宸殿の左近の桜と右近の橘も、もとは秦河勝の邸宅にあったものだ”と伝承されています。

まとめ


いかがだったでしょうか。
今回は、古代日本最大の氏族であった秦氏について学術的な観点から紹介しました。

今回の動画の参考文献は、水谷千秋氏の著作『謎の渡来人秦氏』です。
都市伝説的なロマンたっぷりの説で語られがちの秦氏について、しっかりとした学術研究をもとに学べる一冊となっています。
参考文献については、概要欄にリンクを貼っているので興味のある方は概要欄のリンクからチェックしてみてください。

今回の動画につかった台本も公開しています。
文字で今回の内容を読みたい!という方は、概要欄のリンクからチェックしてみてください!

今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
また歴史を楽しめるコンテンツを配信していきますので、高評価やコメント、チャンネル登録、あとスーパーサンクス機能も使えるようになりましたので、よろしくお願いいたします!
ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!

この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史本プレゼンチャンネル】の動画を、テキストにしたものです。

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