メディアの大いなる勘違い~「寄り添い」という免罪符
寄り添う、という言い回しをこの頃よく目にするが、安易に使われすぎて陳腐化している。他者への理解や尊重を抜きにして、インスタントな共感や同情を押し付け、自己満足するようなニュアンスがある。
報道と支援は別もの
11月3日の産経新聞のコラムにも、そのような甘ったるい偽善を感じた。内容があまりに稚拙で、PV稼ぎの炎上狙いかと思ったほどだ。
このコラムには、能登半島の豪雨取材で帰れなくなったテレビ局のクルーが、現地の住民の自宅に泊めてもらったエピソードが出てくる。その夜クルーは取材活動を始め、住民の不興を買ったと言う。コラムの書き手は、自分が同じ状況にあったらやはり取材していたのではないか、としている。
そして、こういった場合に起こる葛藤について、以下のように表現している。
今どき「被害者を傷つけても構わない」などと考えて仕事をしているメディアなどいない。むしろ、被害者に寄り添いたい、どうにかして役に立ちたい…と煩悶(はんもん)の中で取り組んでいる人の方が多いのではないか、と思う。
上の文章によって報道陣に対する風当たりが和らぐとは、私にはとうてい思えない。災害や犯罪の被害にあった人、何らかの理由で弱い立場に置かれている人に、メディアの人間が「寄り添ったり」「役に立ったり」できると本気で思っているのなら、それはやさしさでも何でもなく、ただの傲慢さだ。
さらに続く言葉も、自らの立場を思い違いしているばかりで、ジャーナリズムのかけらも無かった。
「マスゴミ」と揶揄(やゆ)される時代、メディアの仕事は被害者報道であって、被害者支援ではない―と正論を振りかざしても、理解も共感も得られないのではないか。
マスコミの人間に「支援」を求める被害者なんて、どこにいるのか。だいいち彼らにどんな支援ができるというのか。
コラムにもあるように、メディアの仕事は「報道」であって「支援」ではない。最優先にするべきは、事実を正確かつ的確に伝えることだ。取材対象に同情・共感して距離を縮めてしまったら、仕事にならない。なのに筆者はジャーナリズムの基本を打ち捨て、情緒的な要素を前面に出してしまっている。
このコラムもいわゆるエモ記事の一種なのだろう。
「知識」と「やさしさ」はいらない
コラムの書き手である毎日新聞の論説委員は、「犯罪被害者支援員養成講座基礎コース」なるものを受講したという。「犯罪被害者支援に関しては取材を通じ、一定の知識があるとの自負もあったが、一受講者として学ぶと視界は変わった。 」とあるが、「一定の知識があるとの自負」を抱き、それを公けの場に書いてしまう時点で、デリカシーの無さが露呈している。
「被害者支援」についての知識があれば、取材の際に不用意に傷つけずにすむと考えているのなら、それは大いなる勘違いだ。支援の専門家ではない人間が表層的な知識を身に着けたところで、たいした役には経たない。それどころか、生半可な知識を実践しようとして、害が及ぶことすらある。
「マスコミ=被害者の敵」 と見なされている現実に、コラムの書き手は愕然としたらしいが、今までその現実に気づかなかったのなら、いったい何を見てきたのかとこちらが愕然としてしまう。
取材の現場で接する人々をありのままに見ることなく、「被害者」「弱者」のステレオタイプに押し込める……「かわいそうな人」の悲惨さを広く世に知らしめることが「公益」にかなうのだと、これまたステレオタイプなジャーナリズムの皮をかぶり、特権的な立場に立って人を利用する……かわいそうな人を救ってあげるのだと思いあがる……そういった傍若無人さを指摘されると、今度は「寄り添い」で懐柔しようとする……
さんざん人を踏みにじった後で、優しくすれば帳消しになると思っているなら、DVの構図と変わらない。
真に求められるのは常識と良識と人権意識
マスコミの人たちの多くは誤解しているようだが、求められているのは取材相手に寄り添うやさしさではないのだ。
相手は災害や犯罪の被害者である。通り一遍の思いやりや優しさ、共感や同情では太刀打ちできない。「困っている人を助けてあげる」という意識が透けて見えれば、取材相手を傷つけ不信感を抱かせてしまう。本当に必要なのは思いやり以前の常識と良識であり、さらにいうならまっとうな人権意識である。
取材対象者と同じ目線で対等な立場で接すること、相手の尊厳を重んじることは、取材する側にとっては難しいのだろう。メディアの人間には「報道の自由」という特権があり、公益のためとあれば多少のことは許されるところがある。いっぽう、取材を受ける側、特に一般市民の場合はメディアの特権に匹敵する特権をもっていないどころか、「弱者」「被害者」であったりする。取材する側とされる側は、このようにきわめて不均衡な関係にある。
ここで先ほどのトンデモ発言の前半に戻る。
今どき「被害者を傷つけても構わない」などと考えて仕事をしているメディアなどいない。
これがなぜトンデモかといえば、取材という行為に埋め込まれている暴力性から目を背けているからだ。権力不均衡な関係で上位にある取材者は、下位にある被取材者に対し、傷つける意図はなくても傷つけてしまう。それが取材というものなのだ。取材する/されるという関係そのものが、本来不均衡で暴力的なのである。
そこに自覚的ではない取材者は取材対象から抗議されると、「傷つけるつもりはなかった、悪気はなかった(だから私は悪くない)」と言い逃れをする。私の場合はまさにそうだった。取材者の無自覚ないし自己欺瞞は、迷惑行為どころか人権侵害を引き起こすことさえある。
メディアの特権である報道の自由と個人の権利とのせめぎ合いが、取材の場で生じるのである。
メディアの人間は自らの特権性に無自覚なまま、傷つき弱った人のもとへ押しかける。特権から来る傲慢さを「寄り添い」という偽りのやさしさで糊塗して、「被害者」に質問を繰り出し、カメラを向ける。「被害者」の傷を深々とえぐって白日の下にさらし、実際より何倍も悲惨に見えるよう増幅して伝える……感動ポルノの完成である。
感動ポルノの裏で、大なり小なり数々の報道被害が起こっていることは、想像にかたくない。私自身の体験がそうだし、当事者から直接話をきくこともある。「被害者報道」が「報道被害」につながる例は多いと思われる。
当事者とともに報道被害の検証を
報道被害が起こるメカニズムを、NHKの放送文化研究所あたりでぜひ解明してほしい。もちろん検証結果は広く公開するべきだ。それこそ唯一無二の再発防止策である。この難所を避け続けていては、メディア全体の信用低下を食い止めることはできない。私は協力を惜しまないし、同じ思いでいる報道被害者も多いだろう。
「メディアの危機」を真剣に考えるなら、報道被害の当事者、視聴者、市井の人たちのところにメディア関係者が自ら赴き、どうしたらいいのか率直に尋ねてみるのが一番なのだが、それこそまさに「痛みを伴う改革」であるから、実行しようという動きはいまのところ見られない。残念なことだ。
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