2006年08月21日
2006年夏期講習「センター試験古文」
第一回
上田秋成『盗人入りし後』
五月雨が続いて晴れ間のない夜に、「ホトトギスが声を出して訪れるのではないか」と、私は軒から垂れるしずくの音を数えるとはなしに起きていたが、いつのまにか熟睡していた。夏の短夜なので、気が付くとすっかり夜も明けていた。寝坊な目をこすりながら見ると、南の引き戸は閉めないままでいた。障子までもが隙間が細く開いている。「よくもまあ風邪を引かなかったものだ」と思って、そっと引き戸を開け放ってみると、ほんとうに不審だなあ、濡れ縁の上に、人の足跡が、泥にまみれてあちこちついているので、もっと周りを見回すと、私の枕元や足元にも、たくさん不吉な状態で泥にまみれている。「化け物が来たのだろうか」と胸騒ぎせずにはいられず、あっちを見たりこっちを見たりして、「どこから侵入してきたのだろうか」と、狭い庭を眺めやると、土塀の土が壊れて、子供が踏みしだいて広がったままにしていたのだが、雨によって振り現れて、雨が流れたり溜まったりして水溜りに流れ込んでいる。これは盗人が入ったのか。「粗末な小屋ごと奪い去っていったとしても惜しくもない(それほど財産がない)のだが、命を取らずにいてくれたのがうれしい」と思って、だんだんに心が落ち着いた。柳つづら(衣装を入れる)がひとつあるのを盗人が開いて、ぼろ衣一、二枚を乱暴に散らかしては、めぼしいものはないか、と探していたのだろう。これらの衣類を盗んでいかなかったのは、私にとって帰って恥ずかしいことに感じられる。なにもかも以前と同じ状態である(何も盗まれていない)のは、盗人にさえばかにされていることで、それが非常に残念だ。足跡が見苦しいので、拭いたり掃いたりしようとふと見ると、机の上に紙を一枚広げて、キツネが手慰みに書いたように、筆跡がたどたどしく何かを書き付けている。不思議に思って見ると、手紙である。
今夜の雨でずぶ濡れになって、雨宿りがてらおたくに忍び込んでみると、私は自分から盗みをして、夜の闇にまぎれて目立たない生活をしているのは同然であるが、(ふつうに生活している)あなたがここまで貧しくていらっしゃるだろうとは思いもかけませんでした。金銭がないどころか、米さい一升もなく、明日の炊事の煙は、何をきっかけとして炊いて食べるのでしょうか、とでもいいましょうか。せめてよその家で盗んできたものでもあればさしあげたところですが、我が手にもちあわせがないのは、あなたの不運です。歌は没頭して詠んでいるのでしょうか。ホトトギスを心待ちにしている歌を、書き終えずに寝てましたね。
深夜の雨に聞き違えるようなホトトギスの忍び鳴きを
私がこの上の句(本=もと)に下の句(末=すゑ)を続けましょう。
おいほととぎすよ、せめてふた声は鳴いてくれ。
「忍び音」と詠んでいるのは、私が夜の闇に隠れ忍んで落ちぶれて盗みまわっているのをはしなくもいっているよ。昔はこうした風流な遊びを、親から自然と習った(家庭教育を受けた)が、酒という悪友に誘われて、よくないばかげたことをして、見苦しい命をせめて今日だけはつなぎたいと逃げ回っているのだよ。
と、荒々しく書き散らしている。
悪党の中には、こんな風流な人もいるのだなあ。もし目がさめていたら、引き止めて語り合っただろうに、「まだ外に立って途方に暮れているのではないか」と、竹の粗末な戸をあけて、後姿を探したが、痕跡さえ残しているはずもない。気があった仲間を、おもてなしもしないで帰した気がしてくる。そのままでいても仕方がないので、部屋に入って、「火鉢に埋めておいた火種が残っているか」と火箸で灰を探る。火鉢の辺りでは、そうはいっても盗人は腹が減っていたのだろうか、お櫃の底まで残るもの泣く食い尽くして帰っていたのだ。「ちょうどよい食い物でもあったら、満足するまで食わせて帰したのに」と、かまどに火を起こしながら考えたりするのは、おもしろい今朝の寝覚めであったなあ。
第二回
『木幡の時雨』
時雨がすっきりとは晴れないまま、三、四日も過ぎて行くので、中納言は姫君に、「やはり何者か名乗ってください。せめと尋ねて行くための目標として」とおっしゃるが、姫君は「名乗るほどのものではありませんので」といって、気を許しきってくれないのも(肉体関係があってもそんなにまで親しくない行きずりの間柄では)当然なので、「私のことは、『関白家の中納言』と世間の人はいっているようですが。あなたはあいかわらず(私を)恐ろしいと思い込んでいらっしゃるのですか。運命というのは目に見えないものなので、(我々は運命で結ばれていますから)そうはいってもやはり、きっと私のことをいとしいと思い出してくださるでしょう」とうめくようにいって、姫君の脇に添い伏して、枕元にある笛を手間探りにして、姫君の横に伏したままなみなみでなく美しく笛を吹き鳴らしていらっしゃるさまが、たいそう趣深いので、尼君は、中納言が姫君に本気で恋心を持っているのがうれしいと思って、しみじみ笛の音に聞き入っていらっしゃる。
しだいに時雨が晴れて行ったが、こうして四、五日も経ったので、中納言が「初瀬へ参詣するのも、こんな出会いを祈るためでした。それでは、初瀬からの帰りには必ずこの木幡の寺に寄りますから」と約束して、お出かけになった。
中納言がそろそろ長谷寺に到着申し上げなさったと思われるちょうどそのとき、姫君の母君のいる桜井よりといって「お母上が胸をたいそうわずらっていらっしゃる」とというむね申して、ひとびとが迎えに参上したので、姫君はひじょうにあわただしい状態で桜井にお帰りになることになってしまったのだが、姫君は、「時雨の夜の人(中納言)は、こんなことがあったとも知らずに、この寺に立ち寄りなさることになっているのに、私が言い残すことのないまま終わってしまうのですが。私が待ちかねてでもいたら、帰って来ないのを恨まねばならない日数が過ぎれば過ぎるほど、あちらが悪いのだと思ってこちらの気が軽くなりもしようが(私が尼気味の家で待っていてこそ、中納言がこの先戻ってこなかったときに、中納言を恨んで責めることができるのに)、自分が中納言を待たずに寺を出たら、いつのまに姿を消してしまった軽薄な女だろうか(と見下されるのが心配だ)」と思うに付けて、非常に恥ずかしく気が引けるけれど、尼君をいっしょに引き連れて、桜井にお戻りになられた。
ぎょうぎょうしくわずらっていらした母君の胸も、夜からは少し落ち着いた、といって、みんな喜んでいた時にも、姫君は人知れず流した涙で濡れた袖のしずくをせき止めかねるくらいつらそうなご様子で、お付きの人々も、「やはり中納言のことが気にかかっていらっしゃるのだろう」と気の毒に思いながら拝見している。
中納言は、急いで木幡の寺に戻っていらしてご覧になると、ひとの気配もせず、非常に驚きあきれて、奥のほうで従者に問わせなさるが、従者は「しっかりと事情がわかるように返答できる人もいません。ただ、追い衰えた下働きの身分のいやしいものが一、二人いるだけです」と申し上げる。中納言は驚きあきれて残念で、「姫君が言い残すことがなかったのも幼稚で、どこを目当てに探せばよいのか」と、一緒に過ごした数日を思い起こしてみると、姫君の面影がただもうその時のまま中納言の身に寄り添っている気がして、そうはいってもそんな仲になって二、三日にもなっていたので、姫君が返答した様子から、「こうして姿をくらますつもりだったから気を許さなかったのか」と思うのが、残念でつらかったので、
思ったことがあるか、いや、思いもしなかったよ、時雨の降る家で、短い笛の一節を吹いたら、姫君との短い一伏(ひとふし)の仮寝の思い出で、こんなに長い物思いに沈むことになるなんて。
と歌って泣き明かしなさる。
こうして、このなごりおしい場所までも離れがたくつらいので、あるじのいない寝床にも心引かれて、お泊りになった。夜が明けたので、置きだしなさって、お邸へお帰りになられても、すこしもうとうとすることがおできにならず、「美しさも愛らしさも、姫君に匹敵するような人はいないだろうよ」と次々に思って、たいそう恋しく涙を流しておいおい泣かずにはいられず、枕も涙でうかんでしまうくらいなので、そっと起き上がって、仏をお祈りなさる。つらそうである。
第三回
『建礼門院右京大夫集』
「女院様が大原にいらっしゃる」とだけは、私もお聞き申し上げているが、しかるべき筋の人(幕府寄りの人)に知られないで女院様のもとに参上しようもなかったが、女院様をお慕いする私の深い真心を道しるべとして、無理矢理にお訪ね申し上げるが、だんだん近づくにつれて、山道の風景からして(女院様がこんな場所で暮らしていらっしゃると尻)まっさきに涙が先に立って流れ、なんともいいようもないが、御庵の様子、しつらいでもなんでも、まったくもって目も当てられないみじめなありさまだ。昔の女院様のご様子を拝見したことのないひとでさえ、だいたいのあたりの様子が、どうしてふつうだと思われようか(尋常でなくひどい)。まして(昔の女院様のご様子を知っている私は)夢とも現実とも区別がつけられない。秋深い山おろしの風邪が、近くの梢にさんざん響いて、筧(かけひ)の水の音、妻恋鹿の鳴き声、虫の音などは、山中ではどこでも同じものではあるが、こと、女院様がそれに取り囲まれていると思うと、たとえようのないつらさである。かつて都にいたときは春の錦のような美しい衣装を重ね着していた女房たちが六十人以上いたけれど、いまは、その一部が、見ても気づかないほどしょんぼりした尼姿で、やっとのことで三、四人だけがお仕えなさっている。その三、四人にむかって、「なんとまあ、よくも再会できました」とだけ、私も先方も言うばかり(これ以上話したらぐち大会になる)。むせぶ涙にぼうっとして、ことばも続けられない。
現在が夢なのか、過去が夢なのか、戸惑わずにはいられず、どう考えても、現実のこととは思われない。
仰ぎ見た昔の雲の上(宮中)の月(中宮)が、こんな深山(みやま)を照らす光となっているのはつらい。
花の美しさ、月の光に例えても、おざなりのの例えようでは満足いかなかった女院様のご様子は、今はもう別人かと思い迷われてしまうが、こんなご様子を見ながらも、何の思い入れもない都へといって、それではどうして私は帰る必要があるだろうと、いやでつらい。
山深く遺しておいた私の心がそのまま済み切って出家して、そのまま女院様のお近くに住むことができる道しるべとね、なっておくれ。
第四回
『紫式部日記』
九月九日重陽の節句、菊の露を吸わせた綿を、兵部のおもとが私のもとに持ってきて、「これは、奥様が、『紫式部よ、特別によくよく老いを拭い捨ててください』とおっしゃって(私に託しました)」というので、
菊の露は、若返るくらいに私の袖が触れましたので、菊の花持ち主である奥様に、千年の寿命はお譲りいたしましょう。
といって、私は奥様にお帰し申し上げようとしたが、兵部のおもとが、「奥様はお部屋へお帰りあそばしました」というので、しかたなくお返しするのを中止した。
その夜、中宮様のお近くに参上していると、月が美しい時間であって、縁側に、御簾(みす)の下から、女房たちの裳(も)の裾がこぼれるようにはみ出しているあたりに、小少将の君・大納言の君などが、中宮様にお仕え申し上げなさっている。中宮様は、御香炉に、先日調合した薫物(香)を取り出して、成果を試していらっしゃる。中宮様の前の庭の美しさ、ツタの紅葉の待ち遠しさなどを、女房たちが口々に中宮様に申し上げれるのだが、中宮様は、いつもよりも具合悪そうなご様子でいらっしゃるので、ちょうど御加持などしてさしあげるころである、落ち着かない気がして、私は奥に入った。でも、人が呼ぶので、局に下がって、しばらく休もうと思ったが、そのまま寝てしまった。夜中ぐらいから、みなが騒ぎ出してざわついている。
九月十日の、まだほのぼのと明ける時間に、中宮様の部屋の装いが、産室用へと変わる。中宮様は白い御帳台(白い布に囲まれたベッド)にお移りになる。道長様をはじめとしもうしあげ、ご子息様たちや、四位・五位の貴族たちがたくさん騒いで、御帳台の垂れ布を懸け、中宮様の御座所の敷物などを持ち運び行き交う間、非常にせわしない。
日中ずっと、中宮様は不安げに起きたり横になったりしてお過ごしになった。修験僧たちは、中宮様に憑依しかねない御物の怪たちを、駆り立てて別の少女たちに憑依させ、このうえなく大騒ぎしている。数ヶ月来ずっとたくさんお控えしている、お邸の中の僧たちはいうまでもなく、山々寺々を捜し求めて、修験僧という修験僧はすべて残りなく集まり申し上げ、過去・現在・未来に至る仏たちも、お祈りの声をどう思って聞いていらっしゃるのだろうと、想像せずにはいられない。陰陽師といって、この世にいるすべてを呼び集めなさって、八百万いる日本の神々も、聞き耳を立てない神はいないだろう、と見えたり聞こえたりするほど陰陽師たちが呪文を唱えている。暗算祈願の度胸を命ずる寺寺へ布施を持って行く使いが一日中出立しているうちに、その夜も明けた。
第五回
『栄花物語』
こうしているうちに、年号も変わって、永観元年という。正月以来、ものごとはふつに過ぎてゆく。特定の儀式がある時は別として、何事もなく月日が過ぎて行くが、若宮(懐仁親王。後の一条天皇)を、不安定な状態(まだ東宮になっていない状態)であつかい申し上げなさっているのを、父円融天皇におかせられましても、たいそうつらいと思っていらっしゃるにちがいない。円融天皇が、「今となってはもう、なんとかして退位したい(それによって現東宮を天皇にして、玉突き的に若宮を東宮にしたい)」とばかりお考えなさらずにはいられないが、発作がおそろしいほど頻繁に起りなさるくらいに、前天皇の冷泉院がまともな精神状態である期間は少ないので、予想外のことばかりで円融天皇が過ごして(退位できずに)いらっしゃるうちに、あれよあれよと永観二年になった。「せめて今年は絶対に退位して若宮を東宮にしたい」と円融天皇はお思いになって、人知れずそうなるように手配を考えていらっしゃるにちがいない。若宮の母方の祖父・東三条の大臣が、円融天皇に圧力をかけるために、たやすくは参上なさらないのを、円融天皇は理由がわからず、ただ不思議に思いつづけていらっしゃる。若宮の母の梅壺の女御のところでも、やはり若宮が東宮になるための祈祷を格別にしていらっしゃる。こうして、円融天皇も、祈祷関係の方々へのしかるべき官位などを寄進申し上げなさる。時期折々の行事が過ぎていって、七月の相撲の節会も近くなるので、円融天皇は「これを若宮に見せたい」とおっしゃるが、東三条の大臣は、少し不満なようすで過ごしていらしゃるので、円融天皇はたびたび「大臣よ、参内なさい」と宮中からお呼びがかかっても、大臣は、風邪を引いたなどのさまざまの支障を申し上げなさっては、参内なさらないのだが、相撲の節会が近くなって、さかんに円融天皇が「参内なさい」とおっしゃるので、大臣が参内なさっていると、円融天皇は非常に心をこめて丁寧にお話なさって、「天皇に位に即いて今年で十六年になった。こんなに長く在位しようとも思わなかったのだが、天の定めだろうか、このように予想外に在位しているのだが、今月は相撲の節会があるので、あわただしいに違いないから、来月くらいに退位しようと思うのだが、『現東宮が即位なさったら、若宮を東宮に据えたい』と思うので、祈りを寺寺神々にきちんとさせて、望みどおりになるよう祈らせなさい。若宮の地位安定を望む、並々でない親心を知らずに、だれかれとなく不満な様子を見せるのは、たいそう残念なことである。一般に、たくさん子供がいる人でさえ、人というものは子を大切なものだと思うそうである、まして、(私の場合、たったひとりしかいない我が子のことを)どうしていいかげんに考えようか」などと、いろいろとすべきことを円融天皇がおっしゃるのを大臣がうかがって、かしこまって円融天皇のもとから退出なさって、娘の梅壺女御に上記の内容を耳打ち申し上げなさあって、灯りを取り寄せなさって、暦をご覧に名r、寺寺神々に御祈りを願う使いたちが騒がしく出立するので、大臣がこれこれだと事情を説明なさらなくても、お邸の人々は、様子を見て気づいた様子のうれしさは、いいようもなくすばらしい。