盛夏だ。
教室の窓から見える空は青く、ミンミンゼミの合唱が遠巻きに聞こえる。
前世であれば、世間は夏休みに入っている頃だろう。
しかし、インクブスという度し難い存在が跋扈する今世では、暦通りとはいかない。
長期休暇が延期や取消になることは多々ある。
「蓮ちゃん~」
三つ編みが視界の端で揺れる。
私を呼ぶ声に振り向けば、机の縁から顔を覗かせる友人の姿。
「夏休みって予定ある?」
小さく首を傾げる律は、いつもと変わらぬ穏やかな表情だった。
「ない……と思う」
何事もなければ、という注釈がつくが。
ファミリアの海外派遣を始めてからインクブスの大規模な襲撃があり、つい先日はインクブス真菌の駆除があった。
戦場は国外に移ったが、警戒は緩めていない。
果たして夏行事を楽しむ暇があるかどうか──
「なら、一緒に海に行こう~」
まさかの提案を受け、私は硬直する。
ペンケースから頭を覗かせたハエトリグモを、すかさず指で押し込む。
「海…?」
「そう、海~」
のんびりとした口調で告げる律は、波を表現するように手を揺らす。
夏といえば海──それは前世の定番だ。
水棲インクブスが人類から自由な海を奪った。
以来、河川や海岸線への立入は大きく制限されている。
私のファミリアが連中を駆逐してからも、それは変わらなかった。
「…今年から一部地域に限り、海開きが解禁になったそうですわ」
私が抱いた疑問に、御剣が答える。
「時期尚早という声もあるようですけど……杞憂でしょうね」
そして、どこか誇らしげな金城が言葉を付け加えた。
机を左右から挟むように佇む2人は、淑やかで華がある。
「…2人も行くの?」
「はい」
「そのつもりですわ」
即答した金城と御剣は、教室の別グループへ視線を向ける。
その先には、クラスメイトと和やかに談笑する黒澤の姿があった。
白石は席を外しているが、ナンバーズは全員参加と見るべきだろう。
「皆で行った方が楽しいからね~」
そう言って微笑む律は、夏休みを心待ちにしているようだった。
警戒を緩めるわけにはいかない──しかし、休息は必要だ。
インクブスと戦うウィッチは、年端もいかない少女だ。
普通の少女として過ごせる時間は、あまりに少ない。
だからこそ、律たちの願いには応えたい。
「…分かった。予定を空けておく」
友人として。
私は泳げないが、荷物の番くらい──水棲ファミリアの状態を確認しておくべきか。
水棲ファミリアは喜望峰まで進出し、海洋からインクブスを駆逐している。
その反面、日本近海が手薄となっており、戦力の把握は不可欠だった。
「そうと決まれば…」
「水着を買いに行かないとね~」
金城と律は視線を交え、頷き合う。
なるほど、準備は必要──なぜ、私を見る。
私は水着を買いに行く必要がない。
2年前から身長も体型も変わっていないのだ。
「学校指定の水着が──」
「せっかくだから、可愛いのを着ようよ~」
覗き込むように上目遣いで見てくる律。
その所作は実妹を思い出す微笑ましいものだ。
しかし、安直に頷くのは躊躇われた。
「別に私は……」
言葉を途中まで紡いだところで、友人の寂しげな眼差しに気づく。
これまでの学校生活で、私はクラスメイトとの交流を避けてきた。
その癖が──いや、言い訳だ。
悪癖と分かっているのなら、改善すべきだろう。
湧き上がる自己嫌悪を飲み込み、咳払いを一つ。
「お願い…しようかな」
律の顔を真っすぐ見つめ、言葉を絞り出す。
誘いを袖にしようとしておきながら、身勝手かもしれないが──
「いいの?」
目尻の下がった瞳に輝きが宿る。
期待に満ちた視線を受け、私は頷いてみせた。
花が咲く──そう形容したくなる笑みを湛える律。
釣られるように金城と御剣も笑みを零す。
喜んでもらえたのなら、幸いだ。
「どんなのが蓮ちゃんには似合うかな~」
その期待には応えられないと思うが。
「何を着ても変わらないと思うけど…?」
長い黒髪以外に特筆すべき個性がない。
蓮花であっても華などない。
それが私だ。
「う〜ん、そうかな?」
しかし、律は微笑ましいものを見るように笑うだけ。
「東さんは自己評価が低すぎると思いますの」
そう言って御剣は額を押さえて、首を横に振る。
謙遜も過ぎれば嫌味というが、それはシルバーロータスの話だろう。
「ええ、自覚がありませんね」
私を半眼で見下ろす金城の言葉に、教室に居合わせたクラスメイト数名も同意するように頷く。
なぜだ?
◆
インクブスが跋扈する異界には、不毛な大地が広がっている。
砂と岩に覆われ、動植物の類は滅多に見られない。
独自の生態系を構築する原生生物はいるが、極めて小さな集団だ。
異界を支配しながら生態系に一切寄与しないインクブスとは、異質な存在だった。
彼らが大地に求めるのは、生物資源ではなく化石資源だけであった。
「ああ、もう!」
その化石資源を加工する工房に甲高い声が響き渡る。
ここは数多の劇物を生み出してきたマンドレイクの大工房だ。
石造りの壁面には薬物の臭いが染みつき、並べられた大鍋からは毒々しい煙が立ち上る。
「新薬ができた矢先に!」
工房の主たるマンドレイクの長は、皺だらけの醜悪な顔を歪めて叫ぶ。
頭に生えた深緑の葉を揺らし、怒りを全身で表現する。
「ゴブリンを苗床にするなんて気色悪い虫けらども!」
マンドレイクの大工房は前線から遠く離れている、はずだった。
しかし、災厄の脅威は戦線後方にまで浸透していた。
斥候がゴブリンの警邏を捕獲──卵を産みつけ、これを解放。
何も知らぬ警邏が寝床へ戻ったところで、幼体が腹を食い破る。
一瞬で工房は戦場と化し、あらゆる作業が中断を余儀なくされた。
「警邏が寄生されて帰ってくるなんて、どういうことよ!」
「申し訳ありません、アンブロワーズ様」
マンドレイクの長、アンブロワーズの傍に控えるオークは首を垂れた。
優れた戦士である彼らは、己の扱う道具を生み出すマンドレイクたちに敬意を払う。
不手際に対する非難も甘んじて受ける。
「……いいわ」
瞬時に怒りを鎮静化させ、冷静な声色を取り戻すアンブロワーズ。
マンドレイクの長は癇癪持ちの無能では務まらない。
思考を切り替え、事態の収拾に頭を回す。
「それより工房の守備は?」
アンブロワーズは工房の保管庫へ向けて、根の絡み合った奇怪な脚を動かす。
「件のファミリアは封じ込めました。今のところは問題ないかと」
守備の指揮を執る戦士は、あくまで冷静に報告する。
多くのゴブリンが犠牲となったが、ファミリアはゴブリンの寝床に封じ込めた。
薬物を注入すれば一網打尽にできるだろう。
「ただ、増援を呼び寄せているようです」
しかし、周辺警戒に当たるケットシーが工房へ接近する群れを捉えていた。
おそらく、警邏を襲った斥候の本隊だ。
迅速に迎撃態勢を整える必要があった。
「新薬を使うわ」
保管庫の前に立ち、背後へと振り返ったアンブロワーズは次なる命を下す。
「カタパルトは生きているわね?」
皺の隙間から覗く眼を細め、オークの戦士へ冷徹な視線を注ぐ。
守備の要を見誤るような無能であれば、マンドレイクの長は容赦なく処罰を与える。
「死守しています」
インクブスの生命線を守るオークは選りすぐりの戦士だ。
カタパルトの守備は工房と同等に厳重。
そして、アンブロワーズが次に下す命令を察し、ゴブリンの雑兵を呼び寄せていた。
「よろしい」
アンブロワーズは醜い顔を歪め、悍ましい笑みを浮かべる。
そして、保管庫の重い扉を押し開く。
「擲弾を運び出せ!」
指示を受けたゴブリンの雑兵たちが保管庫へ踏み込む。
「それとそれ、奥のそれもよ」
根の絡み合った腕を振るい、アンブロワーズは運び出すべき擲弾を指示していく。
「落としたら死ぬわよ。慎重に運びなさい」
「はっ!」
製作者の忠告に誇張はない。
その新薬はウィッチを狩るための道具ではなかった。
災厄を形成するエナはインクブスと同質である──ラタトスクから齎された不確定情報。
そこから着想を得て、製作された新薬は同胞を殺傷できる。
取り扱いを誤れば、自滅の危険性があった。
「まったく虫けらどもが…!」
新薬を疎ましく思っているアンブロワーズは、苛立ちを露にする。
必要性を理解していても許容しがたい。
マンドレイクもインクブスである以上、ヒトの雌を辱め、苗床にすることを至上と考える。
新薬は異物だ──それは災厄が齎した破滅の一つに思えてならない。
工房より外へ出た一行を、血のように赤い月が照らす。
インクブスの戦士たちが忙しなく行き交う様は、まさに戦場。
「私の工房にまで来るなんて……ああ、忌々しい!!」
アンブロワーズの甲高い声が、工房を囲って築かれた防壁まで届く。
その上には6基のカタパルトが設置され、ボウガンを携えた戦士たちが守備を固めている。
オークの戦士が雑兵たちを従え、防壁の側面に設けられた階段を上っていく。
「まぁ、いいわ」
苛立ちを腹の奥底へ沈め、マンドレイクの長は災厄が来たる空を睨む。
4枚の翅で飛翔する漆黒の捕食者──シルバーロータスが異界に遣わせた最初のファミリア。
大攻勢に呼応して戦線後方まで浸透し、拠点を襲撃する。
彼女たちはインクブスに休息を与えない。
「装填完了!」
ボウガンを単純に大型化しただけのカタパルトに、新薬を充填した擲弾が装填される。
射角を調整し、発射の時を待つ戦士たち。
「来やがれ、化け物ども…!」
漆黒の外骨格が月光を反射し、空で赤が瞬く。
数多の同胞を屠ってきた死の羽音が神経を逆撫でする。
緊張の糸が張り詰めていく──まだボウガンの射程ではない。
ファミリアは大型の個体を前面に出し、鏃型の突撃隊形を組む。
大気を伝播する無機質な殺意。
「撃てぇ!」
響き渡る号令。
引き絞られたカタパルトの弓が解放され、擲弾が打ち出される。
6発の飛翔体が放物線を描いて飛ぶ。
「さぁ──」
災厄の眼前に達する瞬間、ケットシーの術士が火箭を放つ。
「とくと味わいなさい…!」
擲弾が炸裂し、不吉な白が空を覆い隠す。
そこにアンブロワーズの耳障りな笑い声が木霊する。
──その日、インクブスは災厄に抗う術を手にした。
(水着回は)ないです。