荒井由実の登場前には、加藤登紀子や森山良子といった女性フォーク歌手がいて、人気も評価も得ていた。フォーク・ミュージックは元来男性的な表現というわけではない。だが、荒井由実〜松任谷由実の影響の大きさが、女性の音楽表現からフォークを後退させた。もちろん、フォークをルーツに持つ女性歌手はその後も出てきたし、カルト的な支持を得る例も少なくないが、大規模の人気を誇る存在はいなかった。
日本の文脈におけるフォークとは、「安っぽいもの」や「余裕のない人生」に信を置く価値基準と結びついている。70年代中盤から90年代にかけて、「ユーミン」のブランドが否定していたのは、正にそうした価値観だった。そして、日本におけるフォークは、男性が担うものになったのだ(たとえば、長渕剛、ゆず、コブクロなどが挙げられる)。
時代も変わり、日本の社会状況も経済状況も変わった。松任谷由実は時代の寵児から大ベテランとなり、影響力も分散したように思える。だが、「女性によるフォーク」はエアーポケットのままだった。そこに現れたのがあいみょんだった。音楽の歴史が結果的に作った抑圧を、開放したのが彼女の表現だったのだ(あいみょんは、「黄昏にバカ話をしたあの日を思い出す時を」のなかで「安っぽいもの」や「余裕のない人生」を両義的ながらも称揚している)。
あいみょんはCINRAのインタビューで、自分は「天才」ではないと語っている。失礼を承知で、筆者はそれに同意する。彼女の楽曲のコード進行やメロディラインや音色や言葉は模範的だ。稚拙ではないが、聞き手を別の世界に連れていくような驚きやひらめきはほとんど感じられない。一種の器用貧乏であり、彼女の音楽が「新しくない」と感じられ、実際そう評されることがあるのもそのためだろう。
だが、彼女の模範性は、「女性によるフォーク」という抑圧されてきた様式をポップスに馴染ませるための隠れ蓑になっている。ある種の凡庸さが、今まで広く受け入れられなかったものを多くの人に届けるための動力となるのだ。あいみょんの作詞技術がそうであるように、彼女の表現全体が、微妙に届かない痒いところに手が届くような作用を為している。