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【中日元オーナーの白井文吾さんを悼む】ことあるごとに入ってきた反落合監督の声…批判の風よけとなっていた8年間

2024年11月4日 05時00分

 中日新聞社顧問・名誉会長で中日ドラゴンズ元オーナーの白井文吾(しらい・ぶんご)さんが10月29日、老衰のため死去した。96歳。愛知県渥美郡田原町(現田原市)出身。葬儀は近親者で執り行った。喪主は長男・伸明(のぶあき)さん。12月10日に名古屋市内でお別れの会を開く予定。白井さんはドラゴンズに落合博満監督を招聘(しょうへい)して黄金期を支え、球団史上最長の20年間にわたってオーナーを務めた。

秋季キャンプを視察に訪れた白井オーナー(右)と話をする落合監督=2006年11月9日、ナゴヤ球場でで

 中日球団の歴史上、落合監督は「電撃解任」されたことになっている。2011年9月22日、午前に通告、同日中に高木次期監督発表。球団フロントがそうした手順を踏んだからだ。
 その1カ月ほど前、白井オーナーから監督を「代える」という話を聞いた。「ブーイングがすごいんだ…」。当時は政権非難の声が強く、ひそかに交代を決意。「まだ球団の人間にも言っていない」。約1カ月後、球団フロントの上申案を承認。「電撃…」という格好になった。
 元々白井さんが03年オフに抜てきした監督だった。「当初は批判や『何であれを…』という声がすごかった」。支援企業、中日新聞社には反落合の人たちが大勢いた。1年目にリーグ優勝すると、うるさかった人たちが一度は「何も言わなくなった」そうだ。
 「ただ…」と心配していたのは落合さんの個性。「上手が言えないんだな」。監督には企業の社長などに応対する仕事もあるが、落合さんが愛想よくできず、相手が気分を害しているように見えた。ファンサービスも苦手だった。
 反感、批判、新監督の推挙や自己推薦…。白井さんの耳にはことあるごとに反落合の声が入ってきたという。その声を聞いてはのみ込んだ。8年目。ファンの声を含めた「ブーイング」が危険水域に達したと察し、交代を決断した。
 手放すと決めた後も「惜しいな」とつぶやいていた。「日本人は自分がこうだと思っていても、周りが違うことをやっていればそっちに流されるところがある。落合は自分の信念を曲げないんだ」。監督の資質も「ちゃんと調べてあった」上での登用だった。
 その後、落合さんは再び白井さんに請われ、13年オフからGMを3年務めた。求めに応じてコストを削減。GM退任後もわだかまりはなく、いつも「白井さんは元気か」と気にかけていた。
 経営のプロと野球のプロが仕事に徹した8年間。黄金期を築きながらも反落合の声はやまなかった。その間、白井さんは落合さんのことを「辛抱強い。グッと我慢できる」と話していた。批判の風よけとなっていた自らを投影しているようでもあった。 (2010~12年ドラゴンズ担当キャップ・生駒泰大)

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