敗者のいない勝者になる。
ピザ屋のバイトをしていた時、配達帰りに家に帰って寝ていたら、停めていたバイクが見つかってクビになった。コンビニのバイトをしていた時、商品棚のピルクルを勝手に飲みながら休憩していたら、こっぴどく怒られてクビになった。牛丼屋のバイトをしていた時、手当たり次第にまかないを食べていたらクビになった。イベント設営のバイトをしていた時、トイレで読書をしていたらクビになった。テレオペのバイトをしていた時、通勤途中の空があまりにも綺麗で、働くのがバカバカしくなって、自分から能動的にクビになった。
大学入学と同時に新潟を出て、東京の南大沢に住んだ。大学をすぐに辞めて稲田堤に引っ越し、芝公園に銀座嬢の彼女ができて移り住み、五年の間に目白、代々木、高田馬場、東新宿、神楽坂、目黒、富ヶ谷に暮らした。十四回引っ越しを経験して、最後に同棲していた彼女から振られた時にホームをレスして、路上生活者になった。家がなければ生きていけないと思っていたが、家がないおかげでさまざまな出会いが発生し、生きていけるばかりか固定概念が崩壊した。何をしても続かない自分にとって、家のない生活は福音となった。
比較的虚しさを感じやすい私は、何をしても「だから何?」と思う。女にモテても虚しい。金を稼いでも虚しい。豪邸に住んでも、高級車に乗っても、世間的にいいとされているものを獲得しても「だから何?」となる。私は「だから何?」と思わないで済むものを見つける必要があった。虚しくならない勝ち方を知る必要があったのだが、その秘訣を家なし生活が教えた。皮肉なことに、人生の喜びは足し算ではなく引き算にあったのだ。頑張らない。持たない。努力しない。恨まない。悟らない。才能を磨かない。見栄を張らない。意味を求めない。我慢しない。よいことをしない。急がない。健康を求めない。安心を求めない。安全を求めない。信念を貫かない。計算しない。夢を持たない。見ない。聞かない。言わない。コントロールしない。世間的にいいとされているものを放棄したら、目の前に広大な自由が広がった。
足るを知るとか説教臭いことを言いたいのではない。たとえばそれは、好きな人と空を眺めたり、うまいものを食ったり、抱きしめ合う時に感じる「他には何も要らねえ」感に似ている。この時、自分の中から「だから何?」が出てくることはない。たとえそのことによって死ぬことになったとしても、それは、死んだのではなく生きたのだ。俺はこのために生まれてきたのだ、俺はこの人に会うために生まれてきたのだと思えるくらいの喜びは、人生を肯定する。バイトが長続きしないことや、帰る家がない自分の人生を肯定する。この瞬間、我々は、敗者のいない勝者になる。それに触れた人たちも一緒になって勝利の余韻を味わうことができるような、敗者のいない勝者になる。
本来幸せを感じるべき場面でそれだけじゃないものを感じる時、ああ、愛や感謝はデフォルトで、燃やすことがゴールなんだなと思う。心残りを片付ける。死に支度を終えた時、最後に残るものが命だ。最後に残された命を、最後の瞬間が来るまで、燃やたぎらせる。三十種類経験したバイトはどれも長続きせず、十四回引っ越ししても安息の地を見つけられなかった二十代の頃の私に、三十九歳の私は「でも、生きてる」と言いたい。金もない。家もない。仕事もない。でも、生きてる。すごいことだ。人間は、自分で思う以上に、逞しい存在なのかもしれない。これから東京に行く。
おおまかな予定
11月4日(月)東京都中央区界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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