最近、さまざまな知人から「あそこ行った?」「とても素敵だったよ」「絶対に行ったほうがいい」とやたら勧められるホテルがあります。それは、島根県隠岐諸島の海士町に2021年にオープンしたジオホテル「Entô(エントウ)」です。
Entôには「遠島」という意味があるように、隠岐島という立地は、決してアクセスしやすいとは言えません。にもかかわらず、多くの人々を満足させるその魅力は、一体どこにあるのか。まずは僕自身も体感してみたい! と、勢い隠岐島までやってきました。
どうも、ご挨拶が遅れました。編集者の藤本智士です。
見てください、この立地、景観、室内!
部屋に入った瞬間、外の景色が一望できる巨大な一枚ガラスのチカラ。
じつはこの「Entô(エントウ)」は単なるホテルではなく、2013年9月に認定された「世界ジオパーク」を体感できる施設として生まれた宿でもあるんです。いや〜、聞いていた以上にすばらしい!!
ということで、Entô代表の青山敦士さんにインタビュー。じつは青山くんとは、15年来の友人なんです。というのも、僕が以前編集をした『ニッポンの嵐』という本に、松本潤くんの対談相手として登場してもらった縁があるんです。
当時の彼は28歳。北海道生まれながら、2007年に隠岐島・海士町に移住。観光協会の職員として島の未来について懸命に考え、さまざまに取り組んできた青年が、Entôを立ち上げて社長に。現在に至るまでの軌跡を、昔のよしみでぐいぐい踏み込んで聞いてきました。
<目次>
◎先輩に誘われて海士町に移住
◎高校野球で気づいた、指導者の頭をコピーするチカラ
◎初の社長就任は「町の洗濯屋」
◎ホテルの社長になるまでの葛藤
◎ついに社長就任、訪れる大ピンチ
◎オープンを目前にして
◎良い師匠に出会うチカラ
先輩に誘われて海士町へ移住
藤本:まずは海士町との出会いから聞いてもいい?
青山:東京の大学に通っていたころ、先輩が「日本にヤバい島がある」って興奮して話してきて。その先輩と一緒に、大学を卒業する前に3泊4日で来たのが最初です。
藤本:それは何年ぐらいのこと?
青山:2006年です。
藤本:実際に来てみて、どうだった?
青山:当時の僕は途上国支援の活動をしていたこともあって、目線が海外を向いていて、日本の地方には全然行ったことがなかったんです。だから、おじいちゃん、おばあちゃんばかりが生活しているんだろうなと思って来てみたら、若いひとも何人かいたし、何より役場のおじさんたちがすごくパワフルで。
藤本:役場のおじさんたちが?
青山:「売り上げつくるぞ!」みたいなモチベーションで、「島を守るぞ!」みたいな熱量があって、すごくかっこよかったんです。
藤本:その頃すでに海士町は若者の移住が増えてるって言われてたよね?
青山:Iターンの先駆けというか。ドッと増えたので島中は大混乱でした。新しいひとが来て、新しい産業が立ち上がって、地元のひとにとってはカオスの真っ只中。「また若い学生が来た!」みたいななかのひとりが僕でした。
藤本:それで、大学の先輩とこの町に移住したの?
青山:先輩とほぼ同じタイミングで、2007年に移住しました。当時は教育委員会にいた前副町長が、先輩にこの島の教育を変えるプロジェクトを託したいって思ったらしくて。その目利きを信じた当時の町長が先輩を口説いたんです。
藤本:先輩もすごいし町長もすごい。
青山:20代半ばの若者に町長自ら頭を下げて、教育プロジェクトの全権を託すってすごい決断力だなと。年をとればとるほど、そのときの意思決定のすごさを感じます。
藤本:その先輩のかたわらで、当時の青山くんは?
青山:金魚のフンで来た学生っていう感じですね(笑)。
藤本:そこまで言わずとも(笑)。そんな青山くんが、この町にもうちょっと深く関わることになったのはどうして?
青山:当時は3年ぐらい勉強させてもらって、いずれ海外に行こうと思ってたんです。けれど、当時の上司と出会って変わりました。
役場の課長で、僕と同じ名前の青山さん。僕は観光協会の職員として入ってきたけど、「観光ってなんだ?」とか、やみくもにまちづくりをやりたい頭でっかちの若者に「まちづくりって、そもそも何をさすと思っているのか」みたいな禅問答のようなことを言うひとで。青山さん本人も、問うだけじゃなく動くひとで、浮ついたことを嫌うというか。そこにめちゃくちゃ厳しいひとで。
藤本:その方にすごく鍛えてもらったんだ。
青山:そうです。まちづくりって20年、30年かかることなんだって早いうちに気づかせてもらったので、自分の意地として、僕はここに根を張るぞという気持ちが芽生えました。
高校野球で気づいた、指導者の頭をコピーするチカラ
藤本:青山くんって、たしか野球もすごい経歴だったよね。
青山:高校野球で甲子園に行ったことがあるんです。
藤本:それはすごい!いつから野球を?
青山:小4あたりからひたすら野球をして、プロになるって決めて、中学校も部活には入らずシニアリーグに。
藤本:ということは、高校は甲子園常連校に?
青山:そのつもりだったんですけど、中3のときに北海道大会の決勝戦を見て気が変わりました。
当時、一番強かった私立高校と、僕が行くことになった進学校の決勝戦。明らかに体格差もあるし、ヘラヘラして弱そうなのに、めちゃ強い。なんだこの高校は!って思って、その進学校に行くことにしたんです。そのときの監督が、本当におもしろい監督で。それは、今にも影響しています。
藤本:いい指導者に出会ったんだ。
青山:はい。あと、僕自身の特性として、尊敬する友人とか尊敬する指導者の頭をコピーすることが得意っていうことに気づいたんです。他人の頭を同期するチカラがあって、自分の上達方法として、そのチカラを使ってきました。
藤本:頭をコピーするってどういうこと? ドラッグ&ドロップしてコピーできるわけじゃないでしょ?
青山:高校野球でいうと、昼休みに監督と弁当を食べながら、メジャーリーグの試合を一緒に観て、監督がプレイを見る視点や、その発言を真似したり。実際の試合中も、ずっと監督の横にいて、監督がどこを見ていて、どこがうれしいポイントなのか、腹がたって声を上げるのか、とかを真似したりするんです。
藤本:ほんとにコピーなんだ。
青山:観光協会で働き始めてからも、青山さんっていう当時の上司を完全にコピーしてたんです。青山さんだったら、ここでこういう判断をする、みたいな感じで。いわゆるナンバーツーのポジションをずっとやってきた。だから、いざ社長になって、コピーする相手がいない!ってなったときは、めちゃくちゃ戸惑いました。
初の社長就任は「町の洗濯屋」
藤本:いつ、なんの社長になったの?
青山:2013年に、洗濯屋の社長になりました。リネンサプライ、シーツとか浴衣の洗濯をする工場が隠岐からなくなっていて、船に洗濯物を乗せて松江で洗ってもらう状態が数年続いていたんです。けど、そんなのおかしいって、役場の青山さんが洗濯屋さんをつくっちゃって(笑)。
これは、ほかにやるひとがいないだろうし僕がやるしかないと思って、子会社をつくり、そこで初めて社長になりました。そのときは観光協会の一部門みたいな感じだったので、クリーニング師の資格試験を受けて、旅行業の管理者資格も取って。まだ青山さんの下で会社経営をやってるっていう感じでした。
藤本:まだナンバーツー感はあったっていうこと?
青山:そうです。ただ、島での生活が丸10年経ったタイミングで、島のフェーズが目まぐるしく変わったり、僕自身も変化するなかで、2017年に初めて島を出ようかなって思ったときがあったんです。
青山:30代前半になった僕は、少しふてくされてたというか。自分の成長が止まっていると感じていたり、組織や青山さんに対してのいろんな思いがあったりして。初めて親父とけんかして、飛び出す息子、みたいなことがあって。
藤本:ぶつかった時期があるんだ。
青山:青山さんが何枚も上手でしたけどね。僕は殴られる覚悟で噛み付いて、怒られるかと思ったら、ほぼ黙って聞いてくださって。そのうえで「次のチャレンジに向かってみないか」って。それが、このホテル改修のプロジェクトであり、結果としてホテルの社長というポジションだったんです。そういうことをやるひとだし、そういう島なんです。
ホテルの社長になるまでの葛藤
藤本:ホテルの社長になることは、すんなり受け入れられたの?
青山:じつは、すごく迷って。
藤本:それはなにゆえ?
青山:ごまかさずに言うと、このホテルの話は大反対から始まってるんです。「やるぞ!」っていうのは、僕も含めて当時の役場や観光協会、関係者の一部で言い始めたことでもあって。いざ計画を、となると、予算規模だったり、役場のことだったり、いろんな問題があって。
藤本:どういうひとたちが反対を?
青山:反対というよりは、そもそもなぜここまでの予算をかけるのかがわからない、という声が町内のあらゆる事業者さんや商工会、そして観光協会やホテルの内部からも指摘がありました。
藤本:一部の人間が勝手に動き始めてるように捉えられてしまったんだ。
青山:それでもやっぱりこの事業は必要だと思っていたんですけど、僕個人として一番迷ったのは、外から来た人間が、この島の顔のように前に、表に出てしまうこと。町の大きな命運を賭けた事業の責任者に、外の人間がなるっていうことの、覚悟が定まりきらなかったんです。
どんなに反対されても僕はやり切るけど、町のひとはそれでいいのかなって。そのときにある先輩経営者から、「この島は誰の島なのか?」っていう問いをもらって。
藤本:すごい問いだね。
青山:はい。当時は、この島はこの島で生まれたひとたちの島だと思っていたので、外から来た僕が出しゃばっちゃいけないと思ってたんです。けど、あらためて誰の島なのかを考えて。この島が持続的になるには、とか、それを島のひとたちは望んでいるのか、とか。
地元のひとたちとも、喧々諤々、2年、3年、議論を続けて。自分がしばらくは前に出よう、と腹が決まりました。そうしてくれって言ってくれた地元のメンバーもいたので、ある程度、広告塔になるって決めて。
藤本:島のひとのための島だとしても、青山くんも島のひとだよね。
青山:僕自身は、わがもの顔で海士のひとですって、今でもあまり言いたくないところがあるんです。でも、僕の子どもはこの島で生まれ育ったので、完全にこの島の子。その父親としては、遠慮しないほうがいい。最後の決め手になったのは子どもの存在でした。
藤本:なるほど。
青山:あと、もう一つ大きな出来事が決め手になって。じつは、この島に来て初めて世界とつながった感覚になったんです。
藤本:具体的には?
青山:国際機関で活躍されてきた日本人女性のゲストが、2回、島に来てくださったんですけど。ちょうど、このホテルの社長を請けるのか、ほかの地域に行くのか、東京で働くのか、海外に飛び出すのか、迷っているタイミングで。昔の海外に行きたかった夢がむくむくと出始めて、この方に学ばせてもらえば、国際機関での仕事につながる可能性があるんじゃないか、という下心がちょっと芽生えたんです。
そしたらその方に「外に行っちゃだめよ。社内政治とかいろんなことをやらなきゃいけないところよりもはるかに、ここで潜るほうがいい。ここでもっとがんばりたいなら気張りなさい」みたいなことを言われたんです。
藤本:すごい言葉だね。
青山:憧れていた仕事をやっているひとが、ここの価値を言ってくれて、すごく背中を押されました。
ついに社長就任、訪れる大ピンチ
藤本:それでついに、ホテルの社長に。なったのはいつ?
青山:2017年です。そこから4年かけてオープンしました。じつは、その間も大変で。大反対のなか、なんとか折り合いをつけて前に進んで、やっと施工者も決まって着工というタイミングで、いろいろな経緯があって突然白紙になってしまったことも。
藤本:ええ?!
青山:離島の工事ということで、施工者をはじめとして実施体制をつくりあげることが本当に大変な状況で。町長をはじめ役場のみなさんも一緒になって走り回って、頭を下げてくださって、針の穴に糸を通すような交渉をまとめあげていきました。結果的に、2社の企業のジョイントベンチャーという形で体制が整い、この事業に向かうことができたんです。
青山:でも、いざ工事が始まったらコロナで全部止まる、みたいな。3歩進んでは5歩戻る、みたいなことをずっと繰り返して、やっとオープンまでこぎつけることができたんです。
藤本:なんてドラマティック。でも、イノベーションって追い込まれないと生まれないのかもしれない。ジョイントベンチャーを組んでもらった話も、今となれば、ある意味必然っていう気もする。
青山:当初の工事計画では、オープンが2020年だったんです。コロナ禍の真っ只中。そのときにオープンしてたら絶対に潰れてたんですよ。何がどう転ぶかわからないです。
藤本:本当に。
青山:だから一昨年、2022年に「BCS賞」を受賞したときは本当にありがたかったです。国内の優秀な建築作品を表彰するもので、発注者、設計者、施工者が、まとめてチームとして表彰される賞で。
藤本:建築だけじゃなく?
青山:そうです。ふつうは対立構造になるんですよ。発注者と施工者はけんかするし、設計と施工者もけんかする。でも、この賞でチームとして認められて。
藤本:うれしいね。そのチームには地元の工務店さんとかも入ってるの?
青山:地元の関係事業者にも入ってもらいたかったんですけど、予算や工期、技術面で叶わなかったんです。それもあって、地元から大反対にあったんですよね。
藤本:公金を使ってるのに、どうして地元が入れないのか、と。
青山:そうです。でも、一番疑問や意義を指摘し続けてきてくれた会社の社長が、ホテルがオープンする日に来てくれたんです。一緒に酒も飲ませてもらって「ようがんばった」って頭をポンポンしてくれて。そのときは涙が止まりませんでした。うれしかったですね。
藤本:発注はできなかったけど。
青山:ただ、設計時点から、中長期的な改修やメンテナンスは地元の事業者と連携していくことを計画に入れていました。
藤本:すてき。設計者とはどういう出会いだったの?
青山:もともと僕らは観光ビジネスをするにあたり、予算の確保をするために金融機関とか霞ヶ関を回りまくっていたんです。
そのときに飛び込んだ、某ファンドでマネージャーをしていた方が、ホテルの投資とか再生のプロで。このプロジェクトにずっと伴走してくれていて、設計者を選ぶにしてもアドバイスをもらいました。そんななかでプロポーザルをして、「MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO」という設計事務所に。
藤本:そういうプロもいたんだね。
青山:紆余曲折あって、彼女は取締役として8年、ずっと一緒に経営をしてくださっています。
藤本:なるほど。じゃあ、師匠のようでもある。
青山:そうですね。はるかに自分よりも優秀なひとたちに囲んでいただいています。
藤本:すごいね。出会い力が。
青山:本当に恵まれています。
オープンを目前にして
藤本:そうして、いよいよホテルがオープン。
青山:職員さんたちにとっては「観光協会の青山くんが突然上司になった」みたいな感じで、青天の霹靂。初めて社長挨拶をしたときに、「これから何かあったら、あんたを訴えればいいんだね」って話しかけられたり、実際にいろいろと洗礼を受けました。
藤本:なかなかな話。
青山:ホテルのブランド名も変えるって、社長を請けたときから決めてたんですけど、「自分たちが二十数年築いてきたブランドを変えるってどういうことだ」みたいな反発もありました。ハードを建て替えるとソフトも入れ替えることになるし、働いている人間もそう。
いろんなひとから、社員はほぼ入れ替わる覚悟で進めって言われて、そんなことをやるために社長になるわけじゃない、ひとは変われるだろうって綺麗事を言ってたけど。残念ながら自分の力不足で、大半のスタッフが入れ替わることになりました。
藤本:別に綺麗事とは思わないけど。そうなってしまうよね。
青山:いま思えば必要なプロセスだったと思います。でも、当時は覚悟できてなかった。
藤本:その過程を全部、島のひとたちは見ているんだ。
青山:はい。いろんな苦労を、地元のひとたちは知ってくれていて。メディアでは華々しく出していただけますけど、島のひとたちは表も裏も全部わかってるから、それを一緒に乗り越えてきたような気持ちです。
地元の居酒屋の大将も、本当に心配して、反対して、怒ってくれたんです。でも立ち上がってからは、役員も引き受けてくれて、事あるごとに背中を押してくれる。みんな今でも心配してくれてるし、反対は反対なんですけど、見方はだいぶ変わってきていますね。
藤本:地元の方が反対したり、指摘してくれる、というのも、愛ゆえにだよね。
青山:本当にそうです。最後まで応援してくれたひとたちがいなかったら、いくらでも折れてます(笑)。
師匠を見つけるチカラ
藤本:もう一社の洗濯屋さんはどうなってるの?
青山:ちょうど最近、後輩に引き継いだところで、頼もしい若者が守ってくれています。今は海士町内の洗濯しかできないんですけど、更なる投資をかける計画も立てていて。隠岐4島の洗濯物までいくぞって。
藤本:頼もしい。
青山:うれしいですね、本当に。
藤本:すごいね。ひとが循環していく町になってる。ここまで話してみて、青山くんは良い指導者、良い師匠に出会う運があるんだなと思った。
青山:それは本当に恵まれてますね。
藤本:もしも、若い子たちに師匠の見つけ方を聞かれたら、なんて答える?
青山:えー?!考えたことないですね。
藤本:青山くんは自然にやってるから。
青山:あまりおじさんっぽい言い方はしたくないんですけど、悩んでる若いひとたちと話してると、ベクトルが自分に向いちゃってるのかなって。自分のことなんて自分ではわからないんだから、悩まないほうがいいって思います。自分のことをわかってくれてるひとなんて周りにいっぱいいるから、そのひとを信じたらいい。
藤本:コピーの話にも通じるね。コピーって良くは思われないけど、横尾忠則さんの美術館に行くと、横尾さんが子どもの頃に読んでいた冒険小説の挿絵の模写が飾られている。あれだけ確立したアーティストが模写からスタートしたって、すごく象徴的。コピーとか模写することを、もっと肯定できたらいいよね。
青山:そう思います。脳科学にもミラーニューロンがあるように、動物的な生存本能として、オリジナルをつくるよりも生存してきたやり方を真似したほうが生存確立が高いはずなんです。
藤本:みんな自分探しをしたがるし、自分っていうものを追い求めようとするけど。自分なんてなくていいし、ある意味からっぽでいいんだよね。
青山:からっぽのほうがいい。周りのほうがわかってる。そもそも、ただの部分でしかない。自分は何者であるか、みたいなことは、あとから誰かが決めてくれるんじゃないかなって思います。
藤本:それはある意味、青山くんは師匠と思えるような先輩たちに、「次はこれをやれ」って提示され続けてきたっていうことだよね。
青山:そうですね。Entôのコンセプトにしたって、僕の発想は数パーセントしか入ってないんです。大半が役場の青山さんの思想のコピーだし、この島の歴史と風土を自分なりに理解してやっているつもりなので。僕のオリジナリティでこのアイデアをわかってくださいっていうのは、ほぼない。
だからこそ僕も曲げずに、ここでやるならこれしかないだろうっていうことを言っているつもりだし、それに共感してくださっている方が多いんじゃないかなと思っています。
藤本:やっぱりコピーだね。すごくポジティブに。
青山:社長になって真似する相手がいなくなったけど、これからも師匠たちから教わったことや、この島がつくってきたことをコピーするし、その配分みたいなものが僕のオリジナリティになっていくんだろうなと思います。
青山:ここでジオパークの世界に片足を突っ込ませてもらえたのって、すごく大きくて。ジオパークって、地球の過去を遡ることと、未来を見ることを、行ったり来たりするんです。いまはSDGsっていう2030年までの世界共通の目標があるけど、2030年以降に、隠岐が何かを発信するっていうのをすごくやりたくなってるんです。
藤本:なるほど。
青山:それはコピーじゃなくて、自分の中からムクムクと湧いてる気持ち。その自分の変化がけっこうおもしろいんです。オリジナリティも一応あるんだって。
藤本:それも、きっと模写を続けたからだよね。
青山:そうです。点と点がつながってきた、みたいなところですね。僕は18年この島にいますけど、飽きたことがないんです。めまぐるしくフェーズが変わるので、飽きるひまがない。この島にいる若いひとたちは今でもキャリアで悩むんですけど、僕はローカルを掘れば掘るほど世界につながっていると感じています。
ジオパークの関連でアフリカやイタリアに、ここの事例を持って行かせてもらえているので、掘れば掘るほどキャリアが広がっている。それを伝えていきたいし、そういうキャリアを僕が用意してもらったように、用意できたらなって思います。
華やかな舞台の裏側で、さまざまな縁がつながって今がある。そのことがよくわかるインタビューになりました。
真っ白なまま訪れるだけでも、最高な時間を過ごせるEntô。この軌跡を知ったみなさんはきっと、Entôで過ごす時間により深みが出るに違いありません。そしてぜひEntôのなにかをコピーして帰ってください。
インタビュー:藤本智士(Re:S)
構成:山口はるか(Re:S)
写真:平木絢子(umiaisa.me)
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この記事を書いたライター
有限会社りす代表。1974年生まれ。兵庫県在住。編集者。雑誌『Re:S』、フリーマガジン『のんびり』編集長を経て、WEBマガジン『なんも大学』でようやくネットメディア編集長デビュー。けどネットリテラシーなさすぎて、新人の顔でジモコロ潜入中。