カープはなぜ25年ぶりに優勝できたのか?

①「育成球団」の伝統(続)

 忘れられない出来事がある。07年のシーズンオフのことだ。緒方孝市監督が現役時代、広島市民球場のプレスルームで契約更改後の取材に応じた。そこで緒方監督は、引退して二軍を指導したい意向を球団に申し出たと明かしたのだ。その年、二軍で過ごすことが多く、二軍の練習量が以前より減っていることを危惧したのだという。

 結局緒方監督は09年まで現役を続け、コーチを経て15年に監督に就任した。緒方監督は佐賀・鳥栖高から87年にドラフト3位でカープ入り。全国的には無名だったが、二軍からはい上がって主力の座をつかんだ。95年から3年連続盗塁王を獲得し、長打力のある1番打者として活躍した。だからこそ、若手たちが伸び悩む姿が歯がゆく映ったのだろう。

 その緒方監督が理想の監督として挙げるのが、三村敏之さんだ。1994年から98年までカープの監督を務めた三村さんは、広島商高から67年に入団。4年目にようやく遊撃の定位置を確保し、75年の初優勝に始まるカープの黄金時代を支えた。

 三村さんが06年、広島県の福山大学で客員教授となった時、筆者はその初めての講義を取材した。テーマは「自分の生かし方―特別な才能がなくても必要な人材になれる」。三村さんの野球哲学そのものだった。背番号9は現役時代の緒方監督、現在は丸佳浩が背負っている。背番号と一緒に、鍛えて育つ伝統も受け継がれているかのようだ。

 三村さんは96年、カープが首位を走りながら、巨人に11.5ゲーム差をひっくり返されて優勝を逃した時の監督だった。09年、61歳の若さで死去した。カープで育ち、自らのリベンジも果たしてくれた若い選手たちの活躍を、きっと遠いところから喜んでいるに違いない。

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