2017.02.12

大下剛史に聞く(2)それはまさに“神がかった試合”だった

広島初優勝の瞬間

25年ぶりにリーグ優勝を果たした広島カープ。この優勝を75年の初優勝に重ねる向きも多い。41年前、不動のリードオフマンとしてチームを牽引したのが大下剛史氏は“暴れん坊軍団”と呼ばれた東映では切り込み隊長として活躍した選手だ。

彼はどのようにして広島を変えたのか。当時を洗いざらい語ってもらった。(その1はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50787

流れを変えた、捨てゲーム

二宮 1975年の初優勝でカギになった試合は?

大下 6月19日のヤクルト戦じゃろうね。この試合までカープは5連敗しとった。もう投げさせるピッチャーがおらん。それで監督の古葉(竹識)さんがワシと(山本)浩二とサチ(衣笠祥雄)を呼んで「明日は、若い永本(裕章)を投げさせようと思うんだ」と言ったんだ。

二宮 永本は4年前に地元の盈進高からドラフト2位で入団したピッチャーで、ボールは速いがノーコンで通っていました。

大下 そうそう。それで古葉さんは、こう続けた。「もう、これ(永本)しかおらんから負けてもいい。なんならオマエらは休んでもええぞ」と。

二宮 いわゆる“捨てゲーム”だったわけですね。

大下 その試合にカープは3対1で勝ったわけよ(永本は六回三分の一を投げ勝利投手に)。それでカープは勢いに乗った。優勝する時というのは、こういう不思議な勝ち方があるんじゃろうねぇ……。

二宮 予期せぬ戦力と言えば、アンダースローの金城基泰がそうでした。前年の74年には20勝(15敗)をあげ、最多勝に輝きました。ところがその年のオフ、交通事故に遭い、失明の危機に見舞われました。

その後、薬の副作用と戦いながら8月に復帰を果たし、貴重なリリーフとして活躍しました。10月15日、優勝を決めた後楽園球場の最後のマウンドに立っていたのが金城でした。

大下 まさか金城が戻ってくるとはねぇ……。古葉さんも、失明の危機に見舞われたピッチャーを、胴上げ投手に使うんじゃから、采配自体が神がかっていたね。ワシら守っていても鳥肌が立ったからね。

優勝を決めた試合は八回途中から出てきた。ワシの顔を見るなり金城は笑いながら、こう言うたよ。「大下さん、ワシは打球が見えんのじゃけん、ピッチャーゴロでも安心しなさんなよ。バックアップにきなさいよ」ってね。

「なんで、泣くんか。」

二宮 初優勝を果たした歴史的な10月15日を振り返りましょう。

東京・後楽園球場。試合は淡々と進み、九回表へ。スコアはカープの1対0。二死一、二塁の場面で打席には三番ゲイル・ホプキンス。巨人のマウンドは左腕の高橋一三。

フルカウントから放たれた打球は快音を発してライトスタンドへ。事実上の優勝を決めた3ランでした。ネクストバッターズサークルにいた山本浩二はバットを放り投げて万歳しました。広島中が泣き、叫び、放心した歴史的瞬間でした。

このホプキンスの3ランを演出したのが、トップバッターの大下さんです。一死一塁の場面で打席に入った大下さんはファーストの王貞治の前に絶妙なセーフティバントを決めました。古葉さんは「僕が大下に、“ファーストの前に転がせ”と合図したんです」と語っていました。

大下 あの時、ピッチャーは倉田誠からサイドスローの小川邦和に代わっていた。サードコーチャーズボックスに入っていた古葉さんからバントのサインが出た。おかしいな、と思ったよ。だって一塁ランナーはピッチャーの金城やから……。

で、よく見ると古葉さんの視線がファーストを向いている。ほいじゃ、やってみるか。当時の後楽園の内野は芝生やったから、一塁側のええところに転がったよ。結局、内野安打。あれがホームランの呼び水となったんやな。

二宮 優勝の瞬間は?

大下 ワシはすぐロッカーに入ったね。大泣きしている浩二に向かって、「なんで、泣くんか。バカやね」というくらい冷静やった。

二宮 選手とともにファンも古葉さんを胴上げしていました。球場のフェンスを越えてお客さんがなだれ込んできていました。

大下 そうそう。(選手より)ファンの方が多かったんじゃないかな。ワシはロッカーにおったから胴上げには参加しとらん。というより、優勝の経験のないヤツばかりだから、胴上げの仕方もわからんかった。

二宮 ファンと言えば、その代表格が月刊「酒」の編集長の佐々木久子さんでした。今でいう“カープ女子”のはしりですね。

大下 その頃、カープの東京の宿舎は両国にあるパールホテルやった。そこに佐々木さんがやってきて、「剛史くん、アンタはようやった」と言ってくれた時だけ、ちょっとウルっときたかな。まぁ、その程度のもんですよ。