Photo: Brian Rea/The New York Times

ニューヨーク・タイムズ(米国)

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Text by Haig Chahinian

養子に迎えたゲイの筆者。愛娘と男性のパートナー、3人で家族になるが、「普通」とは違うそのあり方を理解することは、当事者であっても難しかった。

この記事は、愛をテーマにした米紙「ニューヨーク・タイムズ」の人気コラム「モダン・ラブ」の全訳です。読者が寄稿した物語を、毎週日曜日に独占翻訳でお届けしています。

娘との関係を疑われているのか


ゲイで白人の僕は、人種が異なる両親の間に生まれた女の子を養子に迎えた。

そんな僕は、娘の水着を選ぶ段になると、途方に暮れた。母がコットンの糸でかぎ針編みした、赤いツーピースの水着を娘に着せてみたが、スタイリッシュなその水着は、水に濡れるとまったく実用的でないことが判明したのだった。

4歳になった年、娘が「パパ、プールパークに行ける?」と聞いてきた。

「すぐに行こう」と答えてから、僕は後悔した。その準備ができていなかったからだ。娘はぐんぐん成長していて、新しい水着が必要だった。

翌日、僕は一人でディスカウントストアに買い物に行き、娘が気に入りそうで、かつ体からずれ落ちることがない水着を見つけるのに苦労した。最終的に選んだのは、水色で、袖が肘まであって、裾が膝まである、丈夫なスウェットスーツのような水着だった。

娘に新しいワンピースの水着を着せて、近所にあるハーレムのプールまで歩いて行くと、前方に長い行列ができているのが見える。真夏の水泳に3度目の挑戦をしたときには、ニューヨークの市営プールに入るには、まるで「多要素認証」のような手続きが必要なのが当たり前のような気になっていた。

はじめて行ったときは、ちょうど1時間の掃除休憩中だった。2度目に行ったときは、持参すべきロッカーの錠前のタイプを誤った。行列に並びながら、掲示されたルールを読み返す。どうやら、ようやくすべての条件をクリアできたらしい。入り口を通り抜けていくティーンエイジャーたちの姿が、僕に希望を与えてくれた。

すると、「お嬢さんは、水着をお持ちですか」と係員に聞かれた。

「はい、いま着ているのがそうです」

「それ、水着ですか? それでいいのかしら。上司を呼んでこなくてはなりません」

係員の視線の下でもじもじしている我が子が不憫だった。でも僕も、疑いをかけられているのだろうか。娘と僕の関係が、裁かれようとしているのだろうか。

娘の褐色の肌と、隣にいる僕の白い肌の間には、血縁関係があるようには見えなかった。7月の暑い歩道に立つなか、僕ら2人の心がつながっていることは、誰にも見えなかった。


また「クローゼット」に戻りかけた心


僕は子供のころ、姉に「ガリガリ・ボーン(骨)・ジョーンズ」と呼ばれていた。僕は父の真逆になりたかった。父の両親は孤児としてアルメニア人虐殺を生き延びたが、その経験は彼らに大きな傷跡を残している。そして父はいつもどこか遠く、別の場所にいるように見えた。

海に行くと、父は僕の横を通り過ぎて、まるでもっと重要な目的地にたどり着こうとしているかのように泳ぎ去っていった。僕は水際でひとり、貝殻を探して砂を掘り続けるほかなかった。自分が親になったら子供と遊ぶことを、僕は心に決めていた。

大学では、男性に対する欲望に悩まされた。親類たちは、米国人の女性と結婚して、オスマン帝国に殺害された150万人あまりの人口を取り戻す一助になるようプレッシャーをかけてくる。

僕は父に誇らしく思ってもらいたくて、苗字が「-ian」で終わる、明らかにアルメニア系とわかる若い女性とデートした。そして母が待ち望む、孫の一群をつくりたいと思っていた。ところが本当の自分に背を向けていることは、恥の意識を助長するだけだった。

その状況は25歳のとき、ピーターと出会ったことで変わる。ピーターは美術館の職員で、僕より7つ年上だ。僕は子供を育てたいという夢を彼に話した。

彼は僕ほど切実にそうしたいと思っていたわけではない。でも僕のことを愛してくれて、彼なりのタイミングで、それに賛成してくれた。そうして付き合いはじめて6年目を迎えたとき、僕らはゲイ・アンド・レズビアン・コミュニティ・センターで開催された「親になりたいカップルの会」に参加した。

僕らが赤ちゃんを養子に迎えようとしていることを、ピーターが彼のお母さんに告げると、彼女は否定的な反応を示した。

「おばあさんになるには私、歳をとりすぎているわ」と、すでに3人の孫がいるにもかかわらず言った。

計画を進めていく過程で、僕らは、僕らの関係を詮索する目にも耐えていった。ミッドタウンにあるクィア・フレンドリーな養子縁組エージェントで申請書を記入しながら、僕らの経歴に関する当然のことながら踏み込んだ質問に答えていった。そして、養子に迎える子供については、健康であれば人種にはこだわらないと記した。

養子縁組が成立するかどうかは、他人が僕らをどう評価するかにかかっている。ケースワーカーが、僕らの狭いアパートをどう見るか。若い妊婦が、お腹の子を託す相手として僕らのことをふさわしいと思うかどうか。判事が、僕らが親になれるかどうか判断する際、彼の前に、女の子と一緒に立つ僕らをどう評価するか。

──そして、ついに縁組が成立した。

ようやく、一家3人になれた秋のさわやかな夜、車でトライボロー橋を渡って我が家に向かいながら、僕は、僕らの小さな娘に月を、川を、マンハッタンのスカイラインのすべてを贈りたかった。

僕は一夜にして望みを叶えられたかのように感じた。でも新たな役割に慣れるには時間が必要だった。

最初の数日間は、早朝、生まれて間もない我が子がベビーベッドにいて、おむつを替えてもらって、ミルクをもらうのを待っているのを見るとギクッとした。母はカリフォルニアからやってきて、唯一の孫娘を溺愛し、手編みのワンジー(上下一体型の服)を何枚も作ってくれた。一方、はじめて孫娘を抱きあげた父は何を言っていいかわからなかったようで、ひたすら「やあ」を連発した。

市営プールのそばを親子3人で散歩しながら、僕はいつか娘と一緒にその水に飛び込むことを想像した。そんな僕ら3人の姿は、なかなか目立っていた。白人男性2人と、その娘である黒人の小さな女の子がハーレムを歩いている。

でも僕の仕事が休みの日、ピーターなしで、娘と2人で散歩しているときの感じは違った。すれ違う人たちは目の端で僕らのことをチラッと見る。その視線に耐えるために、僕は自分にアフリカ系米国人の妻がいて、彼女は職場にいることを想像する。

こうして僕は、心の平穏を保つために、家族構成を自分のなかでごまかした。そして無神経な誰かにそのことについて聞かれないことを願った。僕は再びクローゼットのなかに隠れようとしていたのだろうか。


「普通」に当てはまらない家族の難しさ


コミュニティ・センターは、僕らと同じ同性カップルの家族と交流を持ち続ける手助けをしてくれた。

ある日の午後のことだった。娘が「ねえ、ウィリアムと彼のママたちと一緒にウォータースライド・パークに行こうよ」と言った。僕らは浮き輪を持って、ピクニックの準備をして行った。

家に帰ると、僕らは、娘を養子にしたときの写真アルバムを一緒にめくりながら、娘の生い立ちを語って聞かせ、彼女がそれを自分のものにできるようにした。その後、娘が床に座ってアルバムをめくりながら、自分について語っているのを見て、僕は誇らしさでいっぱいになった。

娘は、僕が同じくらいの年ごろに脱落した水泳教室でも輝いていた。子供の僕はプールのへりにしがみつきながらインストラクターを避けたものだ。でも娘は、自信をもって手足を動かしている。

僕は娘の姿に目を見張り、あんなに上手に手足を動かせるのはどんな気分だろうと思った。さらに幼稚園の初日には、娘は芽生えはじめたその素晴らしい運動神経でスタッフを驚かせた。

「見て、見ててね」と娘は言って、おもちゃのアメフトボールをプレイルームにいた先生に向かって投げ、その際、ボールに完璧なスパイラル回転をかけたのだ。

その一方で、クラスメイトたちは混乱をきたしていた。

園庭にいたある男の子が娘のことを指差しながら、「あの子ね、パパが5人いるんだよ」と僕に言った。

「いや、パパは2人だよ」と僕は訂正した。

また娘を幼稚園に送りに行ったあるとき、別の子がこう聞いてきた。「あの子のママはどこにいるの?」

僕らのソーシャルワーカーは、こうした状況に遭遇したときには、相手を諭すか、無視するか、それとも簡単に説明するかの選択肢があると言った。

「みんながみんな、お母さんがいるわけじゃないんだ。おばさんやおじさんに育てられている子だっているんだよ」と僕は言った。

「でも、あの子のママはどこにいるの?」と彼女は引き下がらなかった。

「僕が、あの子のママだ」と僕は動揺して言った。

ところが母の日が近づくと僕はそわそわして、先生に、この行事が教室でどう扱われるのか訊ねた。

「みんなでブーケを作る予定です。この日曜のお祝いには、あなたがお嬢さんからティッシュで作ったお花を受け取って、父の日にはピーターが手作りの贈り物を受け取ることにしました」と先生は言った。

僕らが母の日や父の日をどう祝いたいか、学校に聞かれたことはなかった。職員たちは一方的に、僕のことを母親的な存在と捉えたのだ。

でも、僕がそう言ったのが、たぶん彼らに聞こえたのだ。そのことに思い当たって、気持ちを落ちつかせることができた。


家族のありかたを模索する


──その夏の日、市営プールの係員が戻ってくるのを待ちながら、僕のなかにはトゲトゲした思いや、侮蔑の念が渦巻いていた。

やがてプールの管理責任者が現れた。

「こちらの方、これは水着だっておっしゃるんです」と係員が管理責任者に言った。

管理責任者は、娘を上から下まで見た後、僕の顔をのぞき込んだ。僕は彼女がこう言うのを恐れた。「この白人の男性はどんな権利があって、この黒人の女の子といるのですか。この子の母さんは、どこです? なぜ、この子はこんなものを着ているのですか」

僕は「ワンピースなんです。日焼けから肌を守ってくれるんです」とウェットスーツについて説明した。

強い塩素の匂いが鼻をついた。壁の向こうでは、プールにいる幸せな人たちが歓声をあげている。その喜びが、娘にも、すぐそこまで迫っていることを願った。だが僕は、自分が娘の正当な親であることをこれまで何度も主張してきて、疲れていた。

管理責任者がついに口を開いた。「これは水着だとは言えませんが、水着ではないとも言えません」。そう言って彼女は、僕らに、輝ける青いプールのほうへ行くよう手で合図した。僕らは入れたのだ。

2人で更衣室をいそいそと通り抜けているとき、娘が「パパ、素敵なウェットスーツをありがとう」と言った。

僕らのことを理解してくれなかった人たちに対する苛立ちを、僕は捨てた。彼らは一見、不思議な僕らの関係を理解するのに苦労していたのだ。そして僕も理解しようとしている最中だ──僕自身を、娘を、そして僕の家族を。たぶん僕らは一生、その答えを探し続けるのだろう。

プールの冷たい水の中に入った。娘は、僕が位置につくのを待っている。僕がプールの端から数メートル離れたところで止まると、娘はむすっとして言った。

「パパ、そんなに近くじゃ、だめ」

娘は大胆かつ勇敢でありたかったのだ。そしてもしかしたら娘は、僕も勇敢だったことを示したかったのかもしれない。

後ろに2歩下がった。彼女が膝を曲げた瞬間、僕は腕を前に伸ばす。すると娘は、この腕の中に、笑いながら飛び込んできた。

© 2024 The New York Times Company

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