★5世紀墓発掘、日本スタイル見えて…学界意見乱雑
5世紀墓発掘の便りが話題だ。
国立羅州(ナジュ)文化財研究所は5世紀前半の墓だと見られる文化財資料第218号‘コフン ヤマンニ膜古墳’発掘調査に関し去る26日明らかにした。
文化財庁国立羅州(ナジュ)文化財研究所は27日午後2時高興郡(コフングン)、豊陽面(プンヤンミョン)で全羅南道(チョルラナムド)文化財資料第218号‘コフン ヤマンニ膜古墳’の現場説明会を開催する予定だ。
オイ膜古墳は独立した丘陵に1機だけ造営される位置づけの独自性と分区表面に石を敷いて終える墓形式である‘汁昔時説’で作った。 汁昔時説は日本で古墳時代(3世紀後半で7世紀末)に普遍的に現れる墓形式だ。
オイ膜古墳は2006年発掘された高興(コフン)キル・ドゥリ安東(アンドン)古墳のように沿岸航路を通行した交易主導者の勢力様相を調べることができる重要な資料だ。 特に日本的要素が目立って学界の論議が予想される。
5世紀墓発掘報せに接したネチズンは“5世紀墓発掘、その時から日本と交流があったのか?”、“5世紀墓発掘、どんな分析が出てくるのか気になる”等の反応を見せた。
記事の原文
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★5세기 무덤 발굴, 일본 스타일 보여…학계 의견 분분
5세기 무덤 발굴 소식이 화제다.
국립나주문화재연구소는 5세기 전반의 무덤인 것으로 보이는 문화재자료 제218호 ‘고흥 야막리 야막고분’ 발굴조사에 관해 지난 26일 밝혔다.
문화재청 국립나주문화재연구소는 27일 오후 2시 고흥군 풍양면에서 전라남도 문화재자료 제218호 ‘고흥 야막리 야막고분’의 현장설명회를 개최할 예정이다.
야막고분은 독립된 구릉에 1기만 조영되는 입지의 독자성과 분구 표면에 돌을 깔아 마무리하는 무덤 형식인 ‘즙석시설’로 조성했다. 즙석시설은 일본에서 고분시대(3세기 후반에서 7세기 말)에 보편적으로 나타나는 무덤 형식이다.
야막고분은 2006년 발굴된 고흥 길두리 안동고분처럼 연안항로를 통행한 교역 주체들의 세력 양상을 살펴볼 수 있는 중요한 자료다. 특히 일본적 요소가 두드러져 학계의 논란이 예상된다.
5세기 무덤 발굴 소식을 접한 네티즌들은 “5세기 무덤 발굴, 그때부터 일본과 교류가 있던 걸까?”, “5세기 무덤 발굴, 어떤 분석이 나올지 궁금하다” 등의 반응을 보였다.
http://www.cstimes.com/news/articleView.html?idxno=85117
◆やはり"任那"はあったのだ!!
日本の古墳時代(3世紀から7世紀末)によく見られる形式のお墓・「古墳」が、韓国でも5世紀前半のものが発掘されたんだって。
(°∀°)b< 日本は3世紀、韓国は5世紀前半・・・日本の方が古い・・・ここ重要ね!!
そして、「日本式のお墓・古墳」が発見されたのは、全羅南道(チョルラナムド)とのことです。
( ̄▽+ ̄*) キッラーン!!
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任那(みまな)
4世紀後半から6世紀後半まで朝鮮半島の南部に存在した地域の名称。
任那日本府(任那官家、みまなのみやけ)という日本(倭国)の出先統治機関が置かれていたと日本書紀に書かれています。
全羅南道から「日本式のお墓・古墳」が発掘されたということは、古代において全羅南道等の朝鮮半島南部は日本の支配下におかれ、日本の半島での活動の拠点となっていた証拠と言えましょう。
(・ω・)/< お墓・古墳はその地域の支配者の"権力の象徴"ですからね。それが日本式って言うんですから意味することは明明白白です。
このことから・・・、
≧(´▽`)≦ < 任那が実在した可能性を示していると言うわけです。
ところで・・・、
( ´艸`) < 1960年代頃から、韓国の歴史家と日本の左翼歴史学者は・・・
「任那日本府は無かった!!」
「先進国だったはずの古代朝鮮が、後進国だったはずの古代日本に支配されていたはずがない」
(゙ `-´)/ ウッキーーー!!
・・・とおっしゃってましたが・・・、
この度めでたく、韓国人自らが「古代朝鮮半島に日本の支配が及んでいた証拠・・・任那の証拠」を見つけておしまいになってしまったという・・・。
`;:゙;`(;゚;ж;゚; )ブッ ギャハハハ!!バンバン!! (o_ _)ノ彡☆
◆もともと「任那、任那日本府は無かった」と主張すること自体が無理なことでありました
そもそも、日本書紀にも、支那の歴史書(宋書倭国伝など)や朝鮮の歴史書(三国史記)にも、古代日本が朝鮮半島で大規模な軍事行動を行っていたことが記されています。
また、414年に建てられたという、この高句麗広開土王(好太王)碑の碑文には・・・、
399年 百済が裏切って日本側についた。新羅から高句麗に日本の侵攻に対する救援要請があった。
400年 高句麗軍5万を新羅救援のために派遣
404年 日本軍が帯方地方(現在の黄海道)に侵攻してきたので、高句麗軍が撃退した。
・・・と記されています。
高句麗の広開土王が日本軍を迎え撃ったという"黄海道"って、現在の北朝鮮の平壌(平安道)のそばですよ!!
こんなところまで日本軍が進出していたことからも、当時の日本が半島に相当強力な"拠点・・・任那、任那日本府"を持っていたと考えるしかないわけです。
だから、素直に歴史史料と考古資料を解釈すれば・・・
任那と任那日本府は存在した!!
この度、韓国の全羅南道で発掘された「5世紀前半に作られた日本式のお墓・古墳」はその証拠だ!!
・・・ということでありましょう。
(´・ω・`)< 韓国の研究者も日本の左翼歴史学者も、もういいかげん・・・「何々だったはずだ史観」・・・は捨てて、歴史史料や考古資料などを素直に解釈しなさいね。