229.非道王女は声明する。
チャイネンシス王国城内の大聖堂。城に併設された教会と並ぶ、もう一つの聖域だ。
国王即位や生誕祭に誕生祭、王座の婚姻、婚約などの儀式、王から民への宣言や国を挙げて行う行事など、その多くがこの大聖堂で行われる。
そしてその日、数度めの王からの演説を聞こうと、変わらず大聖堂には多くの民がひしめき合い、集っていた。
更には今回の演説には重大事項が含まれているという宣言により、城の衛兵、兵士達もまたそこには集い、集まった民を囲うようにしてその場に立ち並んでいた。
ざわざわと、よりによってこの時に何の話なのかと民達が様々な憶測を投げ合い、来たる日への不安を零す中、その騒めきを切るように国王がその姿を現した。
チャイネンシス王国の歴代でも優秀な国王と名高き、ヨアン・リンネ・ドワイト。
民からの支持も強き王の姿が見えた途端、衛兵の声掛けよりも先に民の誰もが口を閉ざし、信仰のシンボルであるクロスの下、彼らの頭上の階から佇む王を見上げ、手を組み、その多くが祈りを始めた。
沈黙がキィィン…と、無音という名の音となり、彼らの耳を強張らせた。
国王の一挙一動に目を凝らし、耳を澄ませ、そして口から放たれる御言を待ち続けた。
長らくの沈黙の後、国王は静かに口を開いた。強い意志と、覚悟を纏って。
コペランディ王国への降伏の取り下げ。
サーシス王国とフリージア王国と共に兵を挙げ、防衛戦を開始すると。
国王の言葉に誰もが耳を疑い、声を漏らした。祈っていた民も結んだ手を緩め、顔を上げて口を力無く開いた。
「皆の戸惑いも当然だ。だが、我が国がサーシス王国を想うように彼らも我が国を救う為に動いてくれた。彼らは、…例え我々が降伏しようともコペランディ王国との間に入り、その侵攻を拒む為に兵を整えている。」
そんな、サーシス王国を巻き込むなんて、何故そのような、それでは彼らを、サーシス王国を守れない、折角の我々の覚悟は、神よ、と口々に戸惑いが彼らの顔色を奪っていった。群衆の一人が「どうかランス国王を御説得下さい陛下!」と堪らない様子で声を上げた。その声に周囲の民がそうだ、どうか、と互いに頷き、それを求めた。
彼らが心配しているのは己の身ではない。サーシス王国の民の安否だ。
それを理解した上でヨアンは首を強く振った。「駄目だ、彼らの意思は固い」と告げるその言葉に騒めきが更に渦を巻いた。
「彼らだけを戦わせ、我々のみが守られる訳にはいかない。彼らと、そしてフリージア王国と共に兵を上げ、立ち向かうことを皆に許してほしい。」
〝フリージア〟その言葉にヨアンへと向けられていた民の視線がお互いへと向けられた。ずっと国を閉ざし、外部を遮断していた彼らにとって〝フリージア王国〟など別世界の話だ。ヨアンがその名を出した時、ラジヤ帝国に匹敵する強国と語ったが、信用に足るかどうかすら彼らには疑問だった。
しかも、特殊能力という謎の存在。神に背く異端な存在と考える民も少なからずいた。
そんな民の不安を打ち消す為にと、ヨアンは決死の思いで家臣達に合図を送った。
そして、司祭とその手に抱えられてきた小さな陶磁器の器と短剣に何人もの民が声を上げ「あれは」「まさか」と驚きを露わにした。
〝血の誓い〟
チャイネンシス王国の信仰の下で行われる絶対的な誓いの儀式だ。
誓いを交わす者同士が、契約と共に互いの血を交わし合い、その誓いを言葉や紙に残す。
彼らにとって、命よりも重きそれは、信仰や婚姻、そして決意に使われる。
正式な儀式に則り行ったそれを、神の元に一度でも誓えば破る事は絶対に許されない。
例え王族や司祭であろうとも、破った者は重罰をもって断罪される。
「皆の不安も、戸惑いも当然だ。だから私はここで誓おう。植民地になどさせず、そして必ずやチャイネンシス王国の文化もその名も全て守り通して見せると。…この命をもって。」
両手を壇上に付き、はっきりと言い放つヨアンに誰もが注目する中。その横では司祭が正式なる儀式に則り神へ祈り、誓いの言葉を唱え、器に葡萄酒を並々と注いだ。
司祭の注ぐ、その葡萄酒は〝神〟と〝民〟の血の代用だ。
それと誓約者の血を交わすことで、それは確固たる神と民へ誓いを交わすことと同義となる。
司祭が様々な宝石を遇らった短剣を恭しくヨアンに捧げた。後はその器に己の血を一滴足らすだけだ。ヨアンが覚悟をもって、その短剣を民の前で指先に向かい握り直した時。
「ッお、お待ちください‼︎」
群衆の中から一人の民が、悲鳴のような声を上げた。静まり返っていた中、その叫びは酷く響き、国王の耳にもはっきりと届いてしまった。ヨアンが手を止め、その民へ目を向けると民は祈るように手を組んだまま必死に訴えるようにヨアンへ恐れ多そうに声を上げた。
「国王陛下の御覚悟は我々も充分理解致しました!ですが、陛下の御覚悟がどれ程気高く、本物であろうとも‼︎…ッ敵わぬと思える敵に、そしてフリージア王国が本当に信用に足ると‼︎我々が潰えさせられはしないと言えましょうか⁈」
ガクガクと震え、涙をその目に滲ませながら、己が発言が無礼と知りながらも必死に声を上げるその民を誰も咎められなかった。そして彼自身が誰よりも己の身の程を理解して、それを発していた。
口を噤み、自分一人へ視線を真っ直ぐと向けるヨアンに瞬きも忘れ、民は更に訴えた。
「わ…我々はっ‼︎…もし、我が国がその結果コペランディ王国に敗れようとも!国王陛下の罰を望みません‼︎それに、…それにっ…!」
涙が溢れ、次の言葉を自分でも発することを恐れるように歯を鳴らした。それでも、感情が先走るように男はこれが自分の最期の叫びになっても構わないと覚悟をもって声を張り上げた。
「もしコペランディ王国に抗い!敗れ‼︎その中で陛下の御身に、命に万が一のことがあれば‼︎その誓いは何の意味も成しません‼︎」
だからどうか今一度御考え直しを…‼︎と訴える民に、とうとう周囲の民が口を押さえ、止めろと彼を囲った。彼の不敬を責めるためではなく、彼が罰せられるのを庇う為に。だが、同時にそれを聞いた多くの民が同意するように「どうか御考え直しを」とその言葉を繰り返し始めた。彼らとって大事な国王が、自らその身を放るような真似を止めようと、必死に声を上げる。
民の思い遣りとその優しさを全身に浴びながら、ヨアンは壇上につくその手を震わせた。己が身を以ての覚悟すら、民へ安堵に繋げることも叶わないのかと。自身の無力感に苛まれ
「覚悟が足りませんか。ならば私が枷を強めましょう。」
高く、それでいて凛とした女性の声が響いた。
突然の声が民の中からではなく、壇上から聞こえたことに、民が再び騒めいた。ヨアンが一点の方向に振り返り、戸惑いを隠せないようにたじろぐ。その視線の先からは一人の鎧姿の女性が現れた。「あれは」「国王陛下に不敬な」「一体っ…」と民衆が口々に声を漏らす。
鎧姿の女性は躊躇いなく歩み、国王の隣まで並ぶと民の方へとその視線を投げた。
「我が名はフリージア王国第一王女、プライド・ロイヤル・アイビー。サーシス王国並びにチャイネンシス王国への同盟と援助を結んだ、この騒動の根源です。」
堂々と放たれたその言葉に、騒めきが一層強まった。「フリージア」「あの者が」「なんと余計なっ…」「折角の陛下の御覚悟を」と所々敵意にも似た色が騒めきに混じり始めた。
ヨアンが見開いた目をそのままに、口だけで「何故、そのような言い方を」と声を潜めて彼女に問いた。まるで、自分が国王二人を惑わせた悪人かのような物言いだ。これではフリージア王国との共闘すら民は拒むかもしれない。
それでも彼女は構う様子もなく、民へとその声を張り上げた。
「国王陛下の〝覚悟〟が、それでも貴方方に届かぬというのであれば、その死すらをも賭しましょう。もし、ヨアン国王陛下がその誓いを果たせぬ時は…」
言葉を切り、誰もが再び静寂に身を沈めた時。プライドは改めて民へとその声を強めた。
「国王陛下は生きたまま火炙りの刑で、その罪を贖うのはどうでしょう。」
!?!!‼︎⁈‼︎‼︎!!、と。
言葉にならない、悲鳴にも似た響めきが大聖堂に木霊した。
ヨアン国王すらも驚きのあまり言葉にすらならないように口を開けたまま、その顔も身体も強く硬直させた。
なんとも不敬な、無礼者、フリージアの悪魔めと段々と敵意の色が濃くなっていく。緊張と焦燥から今にもプライドに向けて感情が刃となって向けられ、あの者を壇上から降ろせと声が合わさり、一つの塊になろうとした直後
「そして私もその隣に並び、共に炙られましょう。」
惑いなく発せられた言葉に、再び大聖堂内が静寂に塗り潰された。
聞き間違いかと疑い、確認するように誰もが黙し、王女の次の言葉を待ち続けた。
その静寂を己が手にして、再びプライドはその口を開く。
「もし、我がフリージア王国の力を以ってしても及ばず貴方方がコペランディ王国の植民地や属州に成り果てたその時は、ヨアン国王陛下と共に私もこの身を火へと投じましょう。衣も、皮も、肉も、その全てを民衆の元に曝け出し、我が心臓を貴方方に捧げましょう。」
国王陛下の御身に大事があっても同様に、と。何のこともないように言い放つ王女に、民は騒めくことすら許されなかった。互いに目線だけで会話し、本気なのかと王女の正気を疑うようにその身を硬くした。
「私はフリージア王国の第一王女。貴方方の〝神〟へ無責任に誓うことはできません。ですから、その次に尊き者へ私は誓いましょう。」
誰もが身体も、口も、表情すら固まり、プライドへと注視する中。本人だけが悠然と動き、首を唖然とするヨアンへと向け、その次に民へと再び向けた。
「貴方方が愛し敬うヨアン国王陛下と、そして国王陛下が愛し望む貴方方、民へ。〝血の誓い〟をもってチャイネンシス王国の〝神〟の前で誓います。」
そう言うとプライドは無造作に短剣を取り、それで薄く自分の指先を切った。ぷつん、と血溜まりが指先にでき、溢れ出す。それを確認するとそのまま短剣をヨアンへと差し出した。
「我がフリージア王国は、同盟国となったハナズオ連合王国を必ずや明日、守り抜きます。叶わなかったその時は、国王陛下と共に炭へとこの身を変えましょう。」
ヨアンが口の中を飲み込み、今度こそその指先を裂いた。プライドと同じように指先の血溜まりが膨らみ、溢れた。そして、互いに示し合わせるように葡萄酒で満たされた器へその指先の血溜まりを傾けた。
ピチョン、と水滴が落ち、水面を揺らした。
おおおおお…と脳の情報処理が追いつかないように騒めきが広く波立った。
血の誓いが今、確かに交わされた。
フリージア王国の隷属、従属の誓いと違い絶対的拘束力は無い。だが、その誓いを民の前で行った今、それは確固たる誓いを意味することになる。
プライドは誓いを終えると止血もしないその手で腰の剣を抜いた。ヨアンも驚き、思わず一歩慄いた。民も口を開いたままに声を上げ、プライドの剣を見上げる。
彼女は宣う、その血と誓いをもって己が決意を。
「我が国は広大な土地と強大な軍事力を誇る大国フリージア!そして貴方方を守るのは、我が誇り高き王国騎士団‼︎たかだか〝三国程度〟に負ける道理も無し!」
彼女の堂々たる発言を、今度は誰も咎めようとはしなかった。神のシンボルであるクロスの下に声を放った彼女の姿は神々しくも映った。
「我らが誇りは己が国と、そして同盟を誓いし国を守る事!ならば貴方方の誇りは何です⁈愛する国王陛下も、サーシス王国の民の覚悟も信じず何が信仰と言えましょう⁈」
今一度、彼女は問い掛ける。
敗北を覚悟し、折れし彼らの心に訴えかける。
〝立ち上がれ〟と。
「国王陛下が愛するサーシス王国の第二王子殿下が、我がフリージア王国を信じてくれました。そして陛下もその第二王子殿下を信じ、我々を信じてくれました。ッならば次は貴方方が信じる番です‼︎」
ダンッ‼︎と、壇上を壊そうとしているのではないかと思うほど、激しく彼女はその場を一度踏み鳴らす。
その熱い音に、肩を震わした民はそれが彼女の足踏みか、己が心臓の音かもわからなくなった。
そして彼女は最後に高々と宣言する。己が血の契約を以って。
「フリージア王国は必ず守り抜きます‼︎この国の未来を望むヨアン国王陛下と共に‼︎サーシスもフリージアも国王陛下も立ち上がった今!残るは誇り高きチャイネンシス王国の民である貴方方だけです‼︎チャイネンシス王国は陛下を一人で戦わせるおつもりですか⁈」
挑発とも取れる叫びに、民は誰もが言葉を失った。唯一、この国の未来を諦めているのが他ならぬ自分達だけだと今初めて気づいてしまったかのように。
王女はそこまで言い放つと、肩で息を切らせながらもその場から数歩下がり、ヨアンのみを残すようにして背後に控えた。
王女のその意図を汲み、言葉も不要のままヨアンは頷き、壇上から民を改めて見定めた。遠目から見ても彼らのその目の意思が先程までと全く異なり、更には口を噤むその沈黙も焦燥や不安を微塵も感じさせない強い意思が宿っていた。
だからこそ、国王である彼は再び、彼らに呼び掛ける。誓いと決意が今の彼らと共にあることを信じて。
「…我らが神の愛するこの国を隣人と共に護り抜く。私は行く、汝らが子らの未来の為に。ッ民よ‼︎私と共に今一度立ち上がってくれ‼︎この国の、ハナズオ連合王国の未来の為にっ‼︎‼︎」
おおおおおおおおおおおおおぉおおおぉぉおおおおおおおおおおおああああああああああっっ‼︎‼︎‼︎‼︎
群衆の雄叫びが竜巻のように廻り、回り、螺旋を描き、大聖堂の窓を割らんばかりの覇気を巻き上げた。
国王陛下と共に、ハナズオ連合王国と共に、神と共に、フリージアと共にと叫び、荒げ、拳を振り上げた。
〝神は我らと共に在り〟と誰かが叫び、更に応えるように民同士の声が強まった。
「…プライド第一王女殿下。」
民の叫びに飲み込まれ、打ち消されながら隣にいるプライドへヨアンは問い掛けた。プライドも掠れる程度に聞こえたそれに首を傾げながら、ヨアンへと向き直る。
「何故…貴方は」
「ヨアン国王陛下万歳‼︎」
国王陛下万歳‼︎陛下!陛下‼︎と、群衆の声に今度は完全に彼の言葉は飲み込まれた。
民の言葉に応えるように手を挙げ、示せば更にその声は高鳴った。プライドも、彼が何か言おうとしたことには気づいたが、今はそれよりもと彼の方へ笑みを向けた。
民の叫びが、兵の雄叫びが鎮まるのを待たずして彼はその手をプライドへと差し出す。
言葉より先に、先ずは民の前で感謝を彼女に示す為に。
ヨアンに差し出された手を、プライドは躊躇いなく笑顔で受け取った。掴み、握り締め、最後に自らもチャイネンシスの民に手を振った。
フリージア王国がサーシス王国ではなく〝ハナズオ連合王国〟に認められた瞬間だった。