224.宰相は追い詰める。
「やれやれ…ここまで遅くなってしまうとは。」
夜道を一人歩きながら、ジルベールは溜息をつく。
侵入者を捕らえた後、王都から城下を更に歩き回り、最後に王配であるアルバートに報告をしたらすっかり遅くなってしまった。
気がつけば右肩をぐるぐると回しながら「歳ですかねぇ」と呟いてしまう。己の特殊能力を使えば若い身体の維持などは容易いが、できる限りは友であるアルバートや妻のマリア、そして愛娘のステラと共に老いていきたい為、彼は未だ自身に特殊能力は使わない。
捕らえた男達はやはり、コペランディ王国の人間だった。
キツめに騎士団に尋問を頼んだところ我が国に侵入した者の内、残った人間もあと二人らしい。
鼠の処理まで見通しが立ってきただけ収穫だと思うべきだ。できれば自分が出国する前に根絶やしにしたいものだがと静かに思う。
丘を上がり、慣れた足並みで家路を歩む。あと数メートルも歩けば愛しい我が家に
「ジルベール・バトラーだな。」
突然、声を掛けられる。近所の者だろうかと顔を軽く向ければ見るからに怪しげな風貌の男がそこに居た。帽子を深く被り、寒くもないというのに丈の長いコートを羽織った男だ。
「…どなたでしょうか。」
酷く冷めきった声でジルベールは男に返す。自分の脳内記憶の誰とも照合されない男に、切れ長な眼が更に薄く細まった。
「一人でよくここまで追いやってくれたものだ。」
ジルベールの言葉に答えぬまま、男は構わず続ける。ジルベールはそれに対して「あぁ…」と特に驚いた様子もなく返した。むしろ鼠の残り一匹が駆除できて丁度良い。適当にそんなことを思いながら右手の指をゴキゴキと鳴らした。その動作にも気付かず、男は笑いながらジルベールへ手を差し出した。
「命令だ。お前も俺の駒になれ。」
ピタリ、とジルベールの動きが止まる。決して魅力的な誘いだった訳ではない。ただ〝命令〟というからにはそれなりのものがある筈だと理解している。黙って男の言葉を待てば、揺れ動いているのと勘違いしたのか口元を引き上げた。
「コペランディ王国の為、騎士団をハナズオ連合王国に派遣させるな。もしくは妨害でも良い。そうすれば望み通りの褒賞をくれてやる。それに…」
言葉を切り、ジルベールの顔を見て更に顔を引攣らせて笑う。ニタァ、と歯を見せてこれから自分達の邪魔をした宰相の顔が痙攣するのを待ちわびるように舌を動かした。
「言う通りにすれば、家も妻と子も無事で済む。」
後ろ手にジルベールの屋敷を指差しながら、男は嘲笑う。ずっと監視していた彼は、ジルベールの家も突き止めていた。更には彼に愛する妻と子がいることも。宰相とはいえ、王族ではない彼の家は、それと比べれば警備も厳しくはない。既にもうひとりの司令塔の男にもこの事は報告済みだった。二対一ならば、少なくとも屋敷に乗り込み子ども一人程度を捻り殺すぐらいはできる。更に、ジルベールは未だもう一人の男がどこにいるかも知らないのだから。
ジルベールが男の言葉に俯き、肩を酷く震わした。怯えか、怒りか。どちらにしても、こちらの言う通りにするしか選択肢が無いのだと男は再び目の前の宰相を嘲笑
「…フッ…ハハッ‼︎」
…男が、笑う前だった。肩を震わしたジルベールが堪らないように声に出して笑い出したのだ。気でも触れたのかと訝しめば、笑い声をあげながら「いえ、失礼致しました」と手を振り、可笑しそうに眉を寄せながら男に向き直った。そのまま、
絶対零度の笑みを、男に向けた。
ぞくり、と。どう考えても自分達が優勢の筈なのに、男は反射的に逃げ出したくなった。拳を握り「ッ何がおかしい⁈」と声を荒げればジルベールは躊躇う様子なく男の前に歩み寄り、流れるようにその首を片手で掴んだ。
ぐえ、っと余りにも自然な流れで首を絞められ、やっと男は暴れ出す。だが、暴れれば暴れるほど首の締め付けは強まった。
「既に貴方達の残りは二人。今までの私の動向を知っていたのならば、恐らくは今も残りの一人が私と貴方を何処かで監視しているのでしょう。…ならば、見せつけてやった方が良さそうだ。」
ニヤリ、と細めていたジルベールの目がゆっくり開かれる。同時に男が声にならないようにグッ…アッ…⁈と声を漏らした。
「愛する妻と娘を引き換えにすれば、私が言うことを聞くと?…ハハッ。よくも恥ずかしげもなくそのような安易な考えを。」
息が続かず、酸素を欲する男の首を掴んだままゆっくりと持ち上げる。宙に足が浮き、ジタバタさせるが全くジルベールに影響はなかった。
「わかっていますよ。焦っているのでしょう?人が減り、武器を失い、ラジヤからの恐怖と更にはコペランディ王国からの圧力。だというのに遠く離れた地では連絡手段も失い、現状も把握できぬまま実績も何も叶わずただただ日が過ぎていくことに。」
決して声を荒げずに話すジルベールからは叫び出す以上の怒りを感じた。男はすでに暴れることも忘れ、死なないようにする事で必死だった。ジルベールの言葉すら頭に入らないほどに。
「嗚呼…なんと他愛ない。」
どこかうっとりとした口調が気味悪く鼓膜に突き刺さる。男が必死の形相でジルベールを睨めば口元だけ笑んでいるその眼だけは、悍ましい程に強く光っていた。
「もう一人のお仲間がどこで見ているかわかりませんが、これだけは貴方にも教えておきましょう。」
とうとう死ぬかと思った途端に手を緩められた。首と手の間に空間ができ、全身で必死に酸素を取り込む。ぜぇっ、がはっと悶えながらもジルベールは変わらず言葉を続けた。
「私の今の幸福は全て、とある御方から頂いたもの。例えコペランディ王国全土…いえ、この世界全てを与えられても足りぬ程の大恩。」
男の反応を味わい、楽しむようにまた次第に首は絞められていく。男が暴れる振りをして、懐の銃に手を伸ばした直後にはジルベールのもう片方の手で銃ごとその手を握り潰された。ぎゃあああ⁈と更に悲鳴が轟く。
「御察しの通り、我が愛は愛しき妻と子のもの。…ですが、この命と人生はそれぞれ別のものに捧げております。」
男の悲鳴が激しく、声が響いては困ると一度軽く首を絞める手に力を込めた。栓を絞めるように男から悲鳴が消えた。
「あの日の救いと引き換えに私はここに在る。」
とうとう男の意識が消え、ガクンと力無く手足を垂らしたところでやっとジルベールは小さく息を吐いた。ドサッと軽い調子で男を地面に放り捨て、藻搔いた男の涎で汚れた手を拭う。
「…ハァ。こんなのを我が家の敷地内に上げたくはないのですが。」
仕方がありませんね、と溜息混じりに男を担ぎ、歩んでいく。ゆらゆらと歩み、屋敷の前で最初に衛兵に会う。ジルベールが担いでいる男に目を丸くするが、それも構わず「今日もお疲れ様です」と衛兵に声を掛ける。
「すみませんが、通信兵に連絡をお願いします。コペランディからの侵入者を捕らえましたので。」
優雅に笑めば、衛兵は急ぎ足で屋敷内に飛び込んでいく。
コペランディ王国から侵入者の可能性を鑑みてから、既に自分の屋敷には通信の特殊能力をもつ衛兵を一人控えさせていた。摂政のヴェストからは衛兵ではなく騎士を派遣しようと言われたが断った。
宰相とはいえ、王族でもない自分を特別処置するくらいならばその分を城下の防衛警備に派遣すべきだとジルベールは考えた。城や騎士団と通信できる特殊能力者の通信兵でもある衛兵を一人派遣してくれただけでも充分過ぎる。自分の屋敷には既に信頼できる衛兵も常駐しているのだから。
それから一時間もしない内に城から馬で駆けつけてくれた騎士団によって男は連行された。まだ生きてはいるし、最後の一人が捕らえられるのも時間の問題だろう。たかが一人では、できることなど程度が知れている。更には騎士団は明日には出国する。そうすれば例えフリージアで何をしようとも戦況には無意味。目的の騎士団の足止めが叶わなければ、あとは自滅か逃走くらいだろう。
そう簡単に奪わせはしない、絶対に。
そして、揺らぎもしない。今度こそ。
「ただいま、マリア。…騒がしくしてすまなかったね。」
宰相は心からの笑みと共に屋敷へ入る。
心配したわ、と心優しい妻が笑顔で出迎え、通信兵による連絡で目を覚ましてしまった我が子がベッドから抜け出し、目を擦りながら父親の帰宅に顔を綻ばせた。
「…とーさま!」
我が娘を抱き締め、母親似の柔らかい眼差しを受けて無意識に口元が緩む。
自分を包む幸福を肌で感じながら、妻と娘に明日からの〝遠征〟について伝える。
心配そうにする妻の髪を撫で、数日会えないことに寂しそうにする娘に「戻ったら美味しいものでも食べに行こう」と約束を交わす。
この時のジルベールは、気づいていなかった。
その判断が、既に彼の怒りを買っていたことに。