220.宰相は見つける。
ゴロゴロゴロ…
既に、夕刻だった。
日が沈み始め、辺りが薄暗く、足元も僅かに見え辛くなっていた。
店が並ぶ市場と違い、一部の民家は既に人影が途絶え始めていた。
特に、下級層に近づけば近づくほど灯りも無くなり、暗闇が増していた。
そこに、男達が二人。
下級層の影から、盗んできた油の樽を敢えて零しながら歩んでいる。下級層から中級層の間である民家には、所謂庶民に分類される一般的な家庭が多い。子ども達に家の中へ入るように母親が声を上げ、夕食の準備を始める。家の外よりも中の方が賑やかになる。
その家々の前を、男達は樽を転がし、中身を零して歩く。
これから起こるであろう大被害を楽しみに笑いながら、ゴロゴロゴロと樽を転がし続け、最後には近くの民家へと樽ごとひっくり返した。
バキャアッ!という樽の音と共に水音が飛び散る。
樽の中身は既にいくらか各所でも同じようにぶち撒け、ひっくり返した。
この油全てが導火線だ。このまま適当に火を放れば民家一面が火の海になるだろう。
男の一人が周囲を見回し、火種を懐から取り出した。後はこれで火をつければ
「おやおや、いけませんねぇ。そういうのは真夜中まで待つのが定石だというのに。」
突然、先程まで誰も見ていない筈のその場で、物陰から軽い口調の男の声が聞こえてきた。
思わず手を止め振り返れば、薄水色の髪の男が民家に寄りかかりながら笑んでいた。
「待てを知らぬ駄犬ほど躾のなっていないものもありませんね。…まぁ、こちらとしては見つけやすくて助かりましたが。」
監視をしていた男が話していた、薄水色の男。この国の宰相だ。いっそこのまま息の根を止めてやればと懐のナイフに手を忍ばせる。その間も宰相はつらつらと語り続ける。
「後処理も面倒ですが、まぁ仕方がありませんね。油の処理は近くの衛兵の手も借りましょう。なのでどうぞ後は宜しくお願い致します。…騎士の皆様。」
突如、声のトーンが低くなり、薄い笑みを宰相が浮かべる。同時に背後に気配を感じれば既に多くの騎士が背後を固めるようにして剣を自分達に突きつけていた。目の前の宰相の言葉に注意を引かれていた途端にこれだ。
男の一人が振り返り際に大声を上げて騎士の喉元へナイフを振るったが、簡単に避けられ逆に腕を掴まれ取り抑えられた。もう一人の男がその隙に地面に転がり騎士達の手から逃れるようにそのまま懐の銃を宰相へと撃ち放つ。男の腕は悪くない、転がった拍子でも近距離の標的ならば撃ち抜ける。が、…
難無く宰相は身体を捻らせるだけで避けて見せた。
ヒュン、と軽く空気を切る音と共に宰相が薄い笑みを崩さないまま涼しい顔で男を見下ろす。驚愕に目を疑う男は次の瞬間には騎士達にそのまま上から取り抑えられていた。
「愚かですねぇ。その程度を避けられなければ初めから私の傍にも騎士の一人や二人は付けています。」
地面に取り抑えられた男にゆっくり歩み寄り、その場でしゃがむようにして男を覗き込む。
「…ですが、私を狙うというのは悪くない。つまりはある程度、私のこともご存知なのでしょうか。」
何処かでこちらの様子を窺っている者でもいるのでしょうかね、と独り言のように宰相は男に尋ねる。男は悔しさで歯を鳴らしながら宰相を睨み付ける。返答の代わりに口から漏れたのは「何故…俺たちの動きがわかった…⁈」という疑問だった。
そのままどんな特殊能力を、と唸るもう一人の男にジルベールは可笑しそうに首を敢えて傾げて見せた。
「いえいえ、特殊能力だなんてそんな。単に皆様のやる事為すことがあまりにも想像しやすかったので。私は単に城の人間を全て把握していただけですよ。」
軽く笑いながらジルベールは今までの男達の動きを思い出す。
国内や王都の検問も、自分が直接関わらずとも間者が突破することは容易ではない。ならば、遠距離からの狙撃武器や重火器は検問の為に捨てるだろう。
先ず簡単で早いのは城内に何かしらの事を起こす事。城内が安全ではない、狙われていると思わせれば重警備を置かざるを得なくなる。だからこそ、各城への入り口には騎士達を控えさせ、門兵には必ず自分が確認するまで馬車や荷を城内に降ろさせないように命じた。
あとは簡単だ。城内へ出入する予定の荷を全て把握すれば良い。
そして城内の人間や出入する人間にも余すところなく会えば良い。城内の人間程度、把握しようとすれば覚えられない数ではない。名も、職務も身分も全て頭に入っている。あとは自分の記憶に照合されなかった人間を見つけて軽く探り、揺さ振れば容易にアラが出る。
同時に城の人間の顔色も窺えば問題無い。いつもと違う様子、隠し事や不調、悩み。相談に乗る振りをしてそこを覗き込み、そっと問い掛ければ侍女が一人、脅されていることを語ってくれた。侍女から私などの上層部の人間に相談などはできる訳がない。だが、逆からならば容易に話を聞くことができた。私から変化に気づき、話し掛ければ良い。
そして、一日で七人。それだけ捕らえられたら残りの人数も、標的を変えることも予想がついた。
城が駄目ならば、もっと警備が薄い場所に甚大な被害をと。
既に多くの騎士達を城下に放っていた。そして女王であるローザ様がサーシス王国との調印をした後に、一番標的にしやすく、王族が見て見ぬ振りをできぬ位置。更には普段の警備も甘く、甚大な被害を及ぼせる場所に騎士達と足を運んでみれば早々にこれだ。
ジルベールは小さく息をつく。我が国に侵入できたのだから腕は悪くないのかもしれないが、所詮は武器も取り上げられたからこそ入国を許されたまで。知性派は今回は不在と考えて良さそうだ。
「…まぁ、外道の考えることなど外道には御見通しだったというだけの話でしょう。」
騎士達に目で指示を出し、取り抑えられた男達が縛られ、拘束されていく。
「化け物共がっ…‼︎」
憎憎しげに吐き捨てる男に、全く気にしない様子でジルベールは辺りを眺める。今こうしている間もまた、何者かに監視されているかもしれない。
男の〝化け物〟発言もある意味では間違っていない。
ジルベールにとっては単純な作業だった。覚え、把握し、そして定める。だが、常人には不可能な行為だ。城の端から端までの人間は余裕で百を超えている。ジルベールが直接会うような人間だけではなく、以前より自ら、普通に城で働く限りは顔を合わせることのない端の端の使用人にも顔を合わせ、新しい人間が城に入れば必ず一度顔を合わす、という作業を日常で繰り返し、記憶していたからこそ出来た業だ。
更には出入する人間や荷に関してもその全てを書類無しに把握など簡単ではない。城には書状や税、荷など毎日多くの物が、そして城で働き、謁見を望む多くの人々が行き交うのだから。城の物流も人も、その全てを把握し、記憶し、寸分違わず照合できる人間などジルベール以外は居はしないだろう。やろうとしてできる人間など、フリージア王国でもステイルぐらいだ。現摂政のヴェストすらその神がかった業を書類無しでは不可能だった。
「さて。…残りの鼠の数だけでも吐いてくださると助かりますねぇ。」
自分自身、明日にはプライドと共にサーシス王国へ出国しなければならない。その前に出来るだけの数の鼠を潰しておきたい。必要ならば、捕らえたコペランディ王国の人間に尋問以上のことをしなければならなくなるだろう。
「…あの御方が忌むような所業はなるべく避けたいのですが。」
だが、民の平穏が為必要とあらば。
そう心の中で唱えながら、ジルベールは騎士と共に再び、次の民家へと移動する。鼠二匹を捕らえたからといって、まだ全てを自分の目で回りきった訳ではない。騎士が各所に配備されていても関係ない。下級層から上級層まで、全ての安全をこの目で確認できるまで。
「…今日は帰りが遅くなりそうだ。」
少し申し訳なく思いながら、ジルベールは歩み出す。帰ったら明日の出国の準備も済ませなければ、とそこまで思った途端に数時間前の言葉を思い出す。
『もし、御許しを頂けるのならばジルベール宰相にも同行を願えませんでしょうか』
…あの御方が、望んで下さった。
敢えて、この身を。
戦場という死地にもなり得る場所だ。
妻や子のいる私を連れるなど、本来ならばあの御方はきっと望まれなかっただろう。
だが、それでも我が力を頼り、信頼し、ティアラ様という大事な妹君を任せて下さった。
ならば、その期待に応えるまで。
この国の宰相としての力を全て捧げ、注ぐ。
それこそが我が使命。
更にはプライド様、ステイル様、アーサー殿。
…恐らく彼らはまた水面下で何かしら動こうとしているのだろう。今回はレオン王子と同じく私は傍観の位置かとも思ったが…
あの時の恩者と共に戦地へ行けるというのならば、それはこの上なき喜び。
使命感と、歓喜が身体の奥底から激しく湧き立つ。
あの時の誓いの為ならば、ラジヤ帝国を更地にも変えてみせよう。