「不倫騒動」を豪快に笑い飛ばした田淵だったが、監督に就任した平成2年当時のチーム事情はけっして笑っていられる状態ではなかった。杉浦忠から引き継いだ2年目のダイエーホークス、戦力は「旧南海」のまま。こんな悲話がある。
ドラフト1位の評価ではない
昭和62年、南海時代最後のドラフト1位指名選手は本田技研熊本の吉田豊彦投手である。吉田は1位に喜んだ。だが、後日、挨拶に来たスカウトから「1位で指名したが、君の本当の評価は3位。契約金も年俸も3位選手の分しか出せない。それでもよかったら入団してくれ」と言われた。
「ショックでした。でも、そのときの僕には拒否なんてできない。受け入れるしかなかった」
年俸も契約金も分割払い。身売り直前の球団とはいえ悲しいお家の事情だった。
南海からダイエーに親会社が代わり、そんな金銭面での苦労はなくなったものの、チームの「顔」となるべき選手がいない。主砲の門田博光は家庭の事情で九州行きを拒否し、オリックスへ移籍した。
トレードで選手を補強しようにも、交換する選手がいない。「金銭」で獲得できる選手ではたかが知れていた。現有戦力で戦うのみ。田淵監督にとって佐々木誠、岸川勝也、藤本博史ら徐々に成長してきた若手を、いかに早く一人前の選手に育てあげるかが急務だった。