戦後は静謐な生き方を選んだ
「終戦直後、父は自決することを考えていたようです。国家に対する奉仕を信条として、『大東亜共栄圏の建設』という大義のために命を張ったとはいえ、戦線拡大の一翼を担ったことに責任を感じていたのではないでしょうか」
こう振り返るのは、里見が63歳のときの子である長男の泰啓氏だ。里見は自らの行いは、いかなる弁解も許されないとして、身をつつしみ余生を過ごした。
「戦中に培った人脈を使って、戦後にまで暗躍することを毛嫌いしていました。児玉誉士夫さんや笹川良一さんのことを『俺はみっともなくて、あんな風にはなれないよ』とこぼしていたそうです」(泰啓氏)
釈放後は専門商社を構え、アジア諸国とODA(政府開発援助)に関わるビジネスに精を出した。たびたび訪中し、中国要人とは繋がりを持ち続けていたという。私生活では、神楽坂の小さな一軒家に住み、泰啓氏の幼稚園の送り迎えを欠かさず行うなど息子を溺愛し続ける日々を送っていた。
「自宅には笹川さんをはじめ多くの財界人が相談に来ていました。かといって派手な暮らしをしていた訳ではありません。金銭に執着がなかったので、里見家の生活は質素でした」(泰啓氏)
'65年、家族と団欒中に心臓麻痺に襲われ里見は亡くなる。中国からは周恩来や蒋介石から弔電が届いた。
千葉にある墓の墓碑銘は岸信介が揮毫したものだ。加えて、碑の撰文には以下のように書かれている。
〈凡俗に堕ちて凡俗を超え
名利を追って名利を絶つ
流れに従って波を掲げ
其の逝く処を知らず〉
上海のアヘン王は、まさに撰文通りの生涯を送った。