高畑裕太、不起訴でも芸能界復帰は絶望的!「弁護士発表書面のイメージが悪すぎる」

 強姦致傷容疑で逮捕された俳優の高畑裕太が9月9日に不起訴となったが、今のところ芸能界が迎え入れる様子はない。日本テレビの関係者は「私に決定権があるわけではないけど、基本、使わないと思う」と断言。

同局では『24時間テレビ』のパーソナリティに抜擢したのに代役の用意を余儀なくされたり、逮捕当日のバラエティ番組が全面差し替えになるなど被害は甚大で、弁護士が無罪を主張しても、その扱いに変わりはないという。その決定的な理由は「事務所を解雇されたということ」だとした。

 高畑が所属する石井光三オフィスは、釈放当日に報道各社に謝罪のファックス。その中で「関係者の皆さまに多大なるご迷惑とご心配をお掛けしました事実を重く受け止め、本日、高畑裕太とのマネジメント契約を解除いたしましたことをご報告申し上げます」と解雇を発表した。

「芸能界では、事務所の解雇というのは起訴よりもデカいんです。芸能界の身元保証がなくなったということですから。容疑のシロクロは裁判にもなっていないので我々にはわかりませんが、芸能の仕事を続けられるなら、事務所が解雇することはないですよ。ハッキリ言えば、事務所の解雇は『仕事をさせられる人ではない』ということを暗に示されたようなものなんです」と日テレ関係者。

 同様に、ほか民放2局の局員に見解を聞いてみたが、ひとりは「事務所を解雇になったら、基本、使わない方針になる」と同回答で、もうひとりは「弁護士の見解が、イメージ悪すぎる」と言っていた。

「悪質な事件ではなかった」
「裁判になっていれば、無罪主張をしたと思われた事件」

 不起訴となった当日、担当弁護士の渥美陽子氏、小佐々奨氏の2名から出された見解は、容疑自体を「なかった」とするようなものだが、これは世間で大きな物議を醸しており、結果的に「高畑を使わない」という方針のダメ押しとなったようだ。

 ある放送作家は「弁護士はイメージ回復のために全力を尽くすつもりで出したんでしょうけど、芸能界や人気商売というものをまったく理解してないです。あれでは逆効果で、むしろイメージはさらに悪化したと思います。
戦略は大失敗でしょう」とまで言っている。

 仮に高畑側の話の通りなら、警察による誤認逮捕という可能性が出てきてしまうが、放送作家は「事実関係より重要なのが、立場の構図」だという。

「テレビでは、敏腕弁護士を味方にしたタレントの強気発言は、被害者の立場の弱さを逆手に取っているように映るんです。弁護士の取った方針が大失敗だというのは、番組に出ている別の弁護士たちも言ってましたよ。同業者だからオンエア中は抑えめにコメントしていましたが、オフではボロクソ。ある弁護士は、例えば『相手女性がとても魅力的な方で、合意と思って接したのですが、僕は昔からコミュニケーションの仕方がヘタで、結果的に傷つけてしまったかもしれず、本当に反省しています』というような、誠意を伝えるものだった方が、ずっとよかったと言ってました。確かにこれなら、バラエティ番組は無理でも、役者としての復帰の可能性あった気はしますね」(同)

 事務所解雇に加え、弁護士ファックスが高畑のタレント生命を破壊。さらに謝罪会見で多くの同情を買っていた母で女優の高畑淳子に対するバッシングも強まっている。タレントはイメージを売る商売だけに、法的な罪に問われなくても、それ以上の社会的制裁を受ける結果になってしまいそうだ。
(文=片岡/NEWSIDER Tokyo)

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『麒麟がくる』“明智生存説”をひもとく「本能寺の変」のあとに見つかったのは“3つの首”だった!

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『麒麟がくる』ホームページより

 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』も、ついに最終回を迎えることになりました。ドラマでは天正10年(1582)6月2日の「本能寺の変」での織田信長の死を、クライマックスとして描くことになりそうです。

しかしこの時、明智光秀の命も実は残り11日になってしまっていたのですね。

 最終回のもう一つのクライマックスが明智の死になるでしょうから、今回は「本能寺の変」とその後の明智の足取りを史実(とされるもの)からたどってみたいと思います。

 信長の遺体が本能寺の焼け跡から見つからぬまま、明智たちは安土城に入りました。そこで明智は信長の残した巨万の富をわがものとしました。そして彼が行ったのが、味方の武将や朝廷のお歴々へのバラマキ行為、つまり賄賂作戦だったのです。

 戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によると、明智の大盤振る舞いは桁外れに凄まじく、現代日本の貨幣価値で、数十億円規模だったと言われます。

 信長は公家たちには良い顔を見せているが、庶民は信長に迷惑していると、尾野真千子さんが演じる伊呂波太夫がドラマの中で文句を言っていましたよね? 手堅い明智は、京都の庶民たちへの減税策も打ち出しています。

 それでも明智に味方をする者たちは少なかったのでした。恐らく、明智は名臣ではあっても、主君たりえない男だと判断されたのでしょう。盟友であった細川藤孝にさえ裏切られた明智は、天正10年6月13日「山崎の戦い」において、秀吉に敗れてしまいます。しかも敗走中の明智は農民たちからも裏切られ、首を奪われてしまいました。もしくは、死を悟った明智が切腹、介錯した家臣がその首を届けたという話もありますが、これらに関しては奇怪な事実があります。

「明智光秀の首」として秀吉側が入手できた首は1つではなく、なんと3つもあったのです(そしてそのそれぞれが、明智の首塚として日本各地に存在)。

 しかし、旧暦の6月は現在の8月ですから、死後数日もたてば腐敗は相当なものです。秀吉側による首実検はこの手の理由で厳密には行われず、簡略に済まされてしまったのでした。こうしたことから「明智は実は死んではいない」という生存説が唱えられるようになったのです。

有名な明智光秀=天海僧正説の信ぴょう性は?

『麒麟がくる』“明智生存説”をひもとく「本能寺の変」のあとに見つかったのは“3つの首”だった!
天海像(木村了琢画・賛、輪王寺蔵)

 数ある明智の生存説として一番有名なのは、明智光秀=天海僧正説です。天海は天台宗の高僧でありながら、徳川家康のブレーンとして活躍、その豊臣家攻略を助けました。そして107歳という驚異的な長寿の末に亡くなったというのです。すでに家康の世どころか、その孫である家光の時代になっていました。

 伝説によれば、明智は「山崎の戦い」で秀吉に敗れた後、比叡山に逃げ込みました。比叡山も明智を手厚く受け入れ、すでに亡くなっていた僧侶「南光坊天海」に成り代わらせたというのです。

 実際、比叡山の「不動堂」には「光秀」を名乗る人物から、慶長20年(1615年)の日付で石灯籠が寄進されており、謎めいた経緯はあるのです。ちなみに慶長20年は豊臣家が滅亡した年です。

 しかし、本当に比叡山は明智に協力的だったのでしょうか? ドラマの中での明智は、「比叡山で出会った者は女子供に関係なく、切り捨てろ」という信長の命に従わず、恩情を施していました。しかし信頼できる史料にこうした一節はなく、むしろ明智がノリノリで焼き討ちに協力したことが本人の手紙で明かされていたりもします。

 一方で、明智による“アフターケア”は確かにあったのです。明智が攻めたのは比叡山・延暦寺の里坊(さとぼう/山寺の僧などが、人里に構える住まい)の多かった坂本という町ですが、その後の明智は坂本の町の復興に積極的に携わり、とくに西教寺という寺の再建には熱心さを見せました。本心では焼き討ちになど加担したくなかったかのように。

 ……というわけで、比叡山が明智に対し、門戸を開く可能性はなきにしもあらず、といったところでしょうか。

 ただ、例の石灯籠にも「願主 光秀」と刻まれているだけで、それが明智光秀かどうかの確証はありません。天海僧正が熱心に関与した、徳川家康の霊廟である日光の東照宮にも、明智家を思わせる要素があるといわれますが、明智家の家紋である桔梗紋が見られる、という指摘は完全な誤認です。

 東照宮の建物に見られる紋様は美術史では「唐花紋」と呼ばれるもので、当時の建物の装飾に普通に使われている意匠にすぎません。また、東照宮の近隣に「明智平」という地名があるという話もあるのですが、これはどう考えても「こじつけ」なんですね。

 また、天海=明智説の最有力根拠といわれているのが、「三代将軍・家光の乳母だった春日局が天海に面会したとき、お久しぶりですと挨拶した」という記録です。しかし、それだけで天海=明智と言い切るのには無理があると筆者には思われます。

 天海=明智説の出どころも現時点ではよくわからず、確かなことは20世紀初頭に「奇説」として一部の歴史マニアに語られていたことがわかる程度なのでした(大正5年<1916年>天海の伝記『大僧正天海』の著者・須藤光暉の記述による)。

 テレビ番組の企画には、天海と明智の筆跡が同じか鑑定するという趣旨のものもあったようです。「同一」という結論を出す人もいるようですが、画像で比べてみたところ、筆者の目には「まったく違う」と受け取られる代物でした。

 書き手の個性が文字に出るのは事実です。しかし、当時は個人の手癖だけで文字を書くことは上流階級にはなく、「○○流」というように、身分や職業、TPOによって使う書体が異なりました。まったく同じ書体を使った時にしか、同一人物の検証など行い得ないと筆者には考えられます。年齢によって、同一人物ですら筆跡は変わるものですし。

 というわけで、やはり明智光秀は「山崎の戦い」で破れた後、「この世から消えた」と考えるのが筆者の結論です。

 絶命しなかった可能性はありますが、明智が比叡山に逃げ込んだところで、そのまま静かに余生を過ごしたでしょう。少なくとも天海僧正のように表舞台で活躍することは不可能だったはずです。

 天海が仕えた徳川家康は家臣の裏切り……つまり、謀反や造反行為に大変厳しい武将として知られます。謀反人の明智を自分のブレーンとして、あの慎重派の家康が信じ込むことができるでしょうか? もし、家康が「本能寺の変」の黒幕で、明智をけしかけた張本人であれば話は変わりますが、その可能性も低いでしょう。

『麒麟がくる』“明智生存説”をひもとく「本能寺の変」のあとに見つかったのは“3つの首”だった!
クリス・ヘプラー公式サイトより

 さて……明智の子孫たちがどうなったのかについても少し触れておきましょうか。細川家に、明智たま(=ガラシャ)を通じて流れ込んだ血脈は有名ですが、最近ではクリス・ヘプラー氏も実は明智光秀と血がつながっているとニュースになったりもしました。

 明智は謎の多い男で、子どもの数も実は定かではありません。秀吉による明智の血縁者の残党狩りも一時期厳しかったものの、生き残った子がいたことはどうやら事実のようです。江戸時代、生き残りの一派が「明田」に改姓、能役者、もしくは能舞台の裏方である笛の奏者として活動していました。この明田家の末裔にあたる方が、明智光秀の子孫として著作を発表なさっている明智憲三郎氏です。

 また、あの坂本龍馬の実家である土佐藩の坂本家も桔梗紋を使っており、明智家の血を引くと主張していました。ただ、これについては龍馬の先祖が江戸時代に家紋を変更し、その時に、明智家を思わせる桔梗紋を取り込んだ「組あい角に桔梗紋」が使われるようになった経緯が明らかで、ずいぶんと疑わしい話になっているのでした。

 江戸時代中期以降、『明智軍記』など明智に好意的な歴史物語が多く書かれました。坂本家の当主にも明智ファンがおり、彼が系図屋に頼みこんで、自分の家の系図を明智家の系図にくっつけてもらったようです。ちなみに坂本龍馬自身は、自分を平安時代の名歌人・紀貫之らを輩出した紀氏の子孫だとみなしていたようですが……。

 さてさて余談が過ぎました。

次週は最終回を拝見した上で、一年間も私たちを楽しませてくれた『麒麟がくる』の総括を行いたいと思います。お楽しみに!

『青天を衝け』徳川慶喜と渋沢栄一の再会シーンにおける虚実 栄一をたしなめた慶喜の態度には理由があった?

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『青天を衝け』徳川慶喜と渋沢栄一の再会シーンにおける虚実 栄...の画像はこちら >>
草彅剛演じる徳川慶喜と吉沢亮演じる渋沢栄一(『青天を衝け』公式Twitterより)

 前回の『青天を衝け』では、パリ帰りの渋沢栄一と、駿府の寺・宝台院(現在の静岡市葵区)で謹慎生活を送る失意の徳川慶喜が2年ぶりに再会するシーンが話題となったようです。

 史実によると明治元年(1868年)12月20日、渋沢は徳川昭武(民部公子)が兄・慶喜に宛てた手紙を手に、昭武が渡欧する際に幕府から用立てられた資金の精算なども行うべく、駿府に到着しました。

 当時、駿府藩(明治2年以降は静岡藩に名称が変更)には、将軍家から一大名に転落した徳川宗家が入っていました。またこの時、すでに慶喜は徳川宗家の当主の座を失っており、徳川一門である田安家から養子に入った徳川亀之助という少年が新当主となっていました。慶喜は亀之助の養父という位置づけで、かろうじて徳川宗家とのつながりを保っている状態です。

 昭武からの手紙を慶喜に渡してほしいと駿府藩の藩庁に託した渋沢ですが、それから4日後、慶喜からは「宝台院に来てくれ」という連絡が来ました。

 ドラマでは「鳥羽伏見の戦い」以降に慶喜が下した政治的決断の数々について、納得できない渋沢が悔しがり、慶喜に意見するような言葉をおもわず吐いてしまったところ、慶喜から「昔のことを言ってもどうにもならない。パリでの民部公子(=徳川昭武)について聞きたい」と冷静に返され、渋沢が「ハッ」とするシーンが印象的でした。前将軍ともあろう方に、失礼なことを言ってしまったと渋沢が反省したようにも見える場面でした。

 また、慶喜は渋沢の報告を楽しそうに聞き、「民部(公子)が無事に帰国できたのはお前のおかげだ」と礼を言って去っていきましたが、あの場面は本当にあったことのようです(渋沢の談話をまとめた『雨夜譚会談話筆記』)。

 一方で、二人の間に当初は存在したわだかまりを象徴するかのような寒々しい曇天が、対話の末にいつしか冬晴れに変わっているという演出がドラマでは取られていましたが、史実では、両者の対面は人目を忍んで夜間に行われたそうです。宝台院に謹慎中の慶喜が客に会うことは本当にめったにありませんでした。その中でも例外的に渋沢を迎え入れたことを世間には知られたくなかったのでしょう。

 渋沢の回顧録からは、約2年ぶりに慶喜の顔を見た途端、彼の心中に複雑な思いが湧き起こったことがわかります。

この対面についての渋沢の証言をまとめると、二人が会ったのは本当に座布団もなく、古くて汚い畳が敷かれた寺の六畳間だったそうで、ドラマよりもさらにわびしい場所でした。その部屋にお供も連れず、慶喜が一人でフラッと現れた時、「2年前は将軍だった方がこんな落ちぶれ方をして……」と渋沢の目に涙が浮かんだそうです。

 渋沢本人によると、ドラマのように慶喜の下した政治的判断に物申すような姿勢を見せたというよりも、「『鳥羽伏見の戦い』以降、あなたが適切な選択をしなかったことが私には悔やまれる。それゆえ、あなたは現在のような境遇に落ちてしまった。そして、私もこれからどうやって生きていけばよいのかもわからない……」などと、愚痴っぽいことを言ってしまっただけのようですね。

 しかし、慶喜はまったく気にとめる素振りも見せず、「愚痴はやめなさい」と穏やかに言っただけでした。渋沢が現在の慶喜の苦境に同情するような言葉をかけた時も、慶喜は超然としたままで、相槌ひとつ打とうとしなかったそうです。

 こうした慶喜の態度に「すごい方だ」と史実の渋沢は素直に感動しましたが、筆者には、徳川家最後の将軍となってしまった慶喜は“今後どういう態度を世間に対して取るべきか”をすでに決めていたのだろうなぁ、と思えてなりません。彼が重視したのは、いかに威厳のある態度を保ちつつ、触れられたくない幕府瓦解時の逸話に“黙秘”を貫けるかでしょう。

『青天を衝け』徳川慶喜と渋沢栄一の再会シーンにおける虚実 栄一をたしなめた慶喜の態度には理由があった?
徳川慶喜(『近世名士写真 其2』より)

 当時の慶喜は、旧幕臣との面会を避けるだけでなく、養子にあたる徳川亀之助とも直接会おうとはしませんでした。亀之助は養父に失礼があってはならないという観点から、江戸と駿府を何度も行き来する生活を送っていましたが、現代でいえば小学校に入ったばかりの年齢の彼が駿府に来たときでさえ、慶喜は謹慎中を理由に亀之助とは会おうとせず、亀之助がよこした使者から「三位様(=徳川亀之助)から(慶喜様の)御機嫌を伺います」と言われても、「(私のことなどどうでもいいから)三位公には機嫌はいかがか」と決まった答えを毎回返すだけという、かなり限定した付き合いしかしていません(『徳川慶喜残照』)。

 亀之助の使者も渋沢と同じように「慶喜さまの謹慎は本物だ」などと素直に感心していたようですが、亀之助がいくら年若いとはいえ、養子の彼から直接、幕府瓦解時の秘話を求められたりしたら……という警戒心が慶喜にはあったのではないかという気がします。

 慶喜が新政府軍から謹慎という手段をとりつつ、どうして“逃げ続けた”のか。いくら慶喜がその真意を説明しても所詮は“言い訳”にしか聞こえないでしょう。そして、その話を彼から聞いた者が「証言」として記録に残してしまう可能性を、当時の慶喜はとにかく警戒していたように筆者には思われます。

 なお、宝台院での生活の中で、慶喜は謹慎だけをしていたわけではありません。慶喜は油絵の技法に詳しい中島鍬次郎(中島仰山:幕府の洋学研究教育機関・開成所の元教授)を招き、教えを受けていたそうです。油彩画は慶喜がもっとも好んだ趣味の一つですが、絵の具さえも、市販品を買うのではなく、自分の手で調合していました。それも宝台院時代にありあまる時間を使って学んだことかもしれませんね。

 慶喜の寺での謹慎生活がひとまず終わったのが明治2年(1869年)のこと。渋沢が用意してくれた元・代官屋敷に慶喜は転居し、明治21年(1888年)までの約19年をそこで過ごしました。渋沢は京都から小川治兵衛という名庭師を呼んで、約4500坪ある敷地のうちの大半を占める広い庭を整えさせたそうです。

 渋沢は慶喜の希望を最優先し、徳川昭武のいる水戸藩には行かず、そして東京(1868年に江戸から改称)にも帰らず、血洗島の家族を静岡(1869年に駿府から改称)に呼び寄せ、しばらく当地で活動することになりました。明治2年(1869年)には「静岡商法会所」をつくり、静岡の特産品を全国に売り出すことに短期間のうちに成功しています。

 早期から大きな利益が出たことは慶喜の生活の改善にもつながり、明治2年中に、東京から正室の美賀君も静岡に呼ばれました。夫婦にとっては約7年ぶりの同居再開です。この時慶喜は35歳、美賀君は33歳でした。現在の年齢感覚では40代半ばに相当でしょうか。

 静岡時代、慶喜は多くの子宝に恵まれました。しかし、美賀君は慶喜の正妻でありながら、夫が江戸から連れてきた二人の側室が妊娠・出産を毎年のように繰り返すのをじっと見ているしかありませんでした。当時の判断基準で高貴な女性が妊娠・出産が可能だとされる30歳をとうに過ぎていたからです。ドラマでは「夫・慶喜とこの先再会できても、私があの人の子を生むことはできないだろう」と美賀君がつぶやいているシーンがあったと記憶していますが、実際になかなか大変だったようですね。

 子供が相次いで生まれる中、思わぬ悲劇がありました。慶喜が37歳の時に、長男と次男が次々と亡くなったのです。原因として推測されたのが、乳母が乳首にまで塗っていた白粉です。この白粉は人体に有害な鉛を主成分としていました。

江戸時代から乳母は、高貴な方のお子様に失礼がないよう、授乳する際でも乳首にまで白粉を塗るのがマナーだったというのですから、聞くだけでも恐ろしい……。実の子が夭折し、位を継がせることができなかった将軍が圧倒的に多かったのも、江戸城・大奥ではこの“マナー”が浸透していたことが原因だったと考えられます。その後の徳川慶喜家では乳母のその手の化粧は禁止され、子供たちも元気に成長することができました。

 このようなエピソードひとつからも、古い時代と新しい時代の狭間を生きた徳川慶喜の人生は非常に興味深いものだったといえるでしょう。

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