ヘイトスピーチの「正論テンプレ」- ファクトチェック福島をめぐる議論から

辛淑玉へのナンクセを発端としたシノドス「ファクトチェック福島」の問題をめぐる議論のなかで、21世紀型ヘイトスピーチの一種のテンプレートのようなものが立ち上がってきており、興味深いので記録しておきたい。

これも NO HATE TV で話した内容のまとめである(60分55秒から)。
https://www.youtube.com/watch?v=FcWkDaY3xCA&t=60m55s

それは次のようなものである。

菊池誠
アンタッチャブルがあることが白日の下に晒されたという感じで、恐ろしいなあという感想だね。

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ファクトチェック福島の当該記事 を擁護する目的でこうした発言をするのは菊池誠に限ったことではないが、いずれも「ネット右翼」というべき人たちではなく、立ち位置としてはリベラル自認あるいはニセ科学批判を趣味とするような人が多い。そうした人たちが、おそらく悪意なしにこうした陳腐な図式化に傾倒していく様を見るのは、まるで現代のヘイトスピーチがどのように生まれるかの実験を、リアルタイムで観察しているかのような気分にさせてくれる。

ほかにいくつか例を上げておく。

例えばいままさに、『ファクトチェック福島がデマを流している人を批判したら、その対象者がたまたま在日朝鮮人の方だったために著名アカウントが「その批判は差別に当たる」とか言い出して謝罪などに追い込まれる』という状況になっていますが?
https://twitter.com/ryorekuiemu/status/983704982674333696

「在日コリアン差別と戦っている辛氏を非難する者はそれがどのような経緯・理由であれみな在日コリアン差別者だ」なんて棒で殴れるなら、「ファクトチェック福島を非難する者はみな福島差別者だ」という同じ棒で殴り返すことだってできちゃうはずだが、まともな人はそんなことしないよね
https://twitter.com/t2o_yama/status/983200946942443520

反差別を標榜している人物を差別主義者と指摘したのが逆鱗に触れたということなのですが、その指摘は正当としか思えない。
https://twitter.com/fwara/status/982274923849703429

今回のファクトチェック福島騒ぎでは批判対象が在日韓国人であったために「自然科学の敵は誰であろうとも容赦しない」というニセ科学批判の大原則が崩れた。
https://twitter.com/macron_/status/982551533966442497

要するに「批判の対象が在日であったために、批判が許されなかったのだ」という物語が生まれようとしているのである。そして、この自然科学に詳しいと自認する人たち(しかし多くはニセ科学批判を趣味とする単なるオタクである)は、これが在特会や日本第一党といった極右排外主義言説の根幹をなしていることを、おそらく知らないであろう。つまり、社会科学に関しては非常にナイーブかつ、悪く言えば「周回遅れ」なのである。

元の批判や「ファクトチェック福島のファクトチェック」  を読めばわかるように、「在日韓国人を批判するな」「被差別者は正しい」などとする言説はない。かつての反差別運動にはそうした理不尽な主張が確かにあったかもしれないが(「アイデンティティ・ポリティクスへの警戒 - 部落解放同盟での経験から https://togetter.com/li/652625」)、今どきそんなことを言う反差別運動はないだろう。

すなわち、社会科学に関してナイーブかつ無教養な「ニセ科学批判」クラスタが、ファクトを無視し、自身の確証バイアスにひきずられてステレオタイプな物語のテンプレートを採用しているのが、菊池誠を始めとした上記の言説なのである。

単に「偏見や先入観によりファクトを無視した」というだけならば、嘲笑してすませることもできる。しかしこと民族差別問題、あるいは部落差別問題に関していえば、その先入観による「物語」の採用こそが差別扇動の原動力となっている。だから笑ってすませるわけにはいかないのだ。

さらに問題なのは、上記の言説のそれぞれは文脈を離れた場合、文単体では正論たりうるということである。ただし実際にそこで指摘されているようなファクトがない場合(この場合は「在日だから批判するな」といった言説がない場合)、それ自体がファクトの捻じ曲げであり、被差別者をアンタッチャブルなもの、こわいものとして印象づけ、差別を拡大する効果を発揮する。冒頭に引用した菊池誠のツイートは、その典型的なものだ。

この「文それ自体は正論である」というところに、リベラルな人、公正でありたい人は、いとも簡単に騙されてしまう。たとえば今では誰もがヘイトスピーチの代表とみなす在特会も、初期には「一理ある」などと言われていたのである。2012年以前は、ニセ科学批判者を自認する多くの人々が、歴史的事実や戦後民主主義、あるいはリベラル言説そのものに「懐疑的」であろうとするがために、いとも簡単にその「一理」を認めてしまう場面も、私はたくさん目にしてきた。

それはなぜか。在特会の主張は、形式として「差別反対」だったからである。

在特会は「在日朝鮮・韓国人は特権を有しており、日本人よりもずっと優遇されている」「その特権は、過去に被差別者であることを利用して獲得したものだ」という宣伝をし、その「特権」や利権を廃止して日本人と平等にしようと訴えた。こういう形式である場合、人は平等であるべきと考える人ほど、彼らのひどい暴言や乱暴狼藉に眉をひそめながらも「特権はなくさねばならない」という主張に一定の理解を示す。

しかしその「特権」自体が捏造であった場合はどうか。

それを本一冊使って「ファクトチェック」したのが、拙著『「在日特権」の虚構』(河出書房新社)だったわけだが、ヘイトスピーチや差別扇動にこうした構造を採用しているのは何も在特会に限ったものではなく、欧米のネオナチやオルト・ライトのほとんどが、実は同じ主張を繰り広げている。

20世紀、ナチスドイツは「ユダヤ人は劣っている」と宣伝し、北米におけるアフリカン・アメリカンは長らく「人種的に劣っている」と見なされてい。しかし現代型の差別はこれらとは違い、移民や有色人種や異教徒に対して「本来平等であるべきところ、彼らが優遇されているために自分たち本来のマジョリティが差別されている」という論理形式を取るのだ。しかし在特会の場合と同様、「特権である」「優遇である」という主張自体がデマであり、マイノリティへの憎悪扇動であり、すなわちヘイトスピーチである。

歴史学者の酒井直樹は、このことについて次のように指摘している。

差别と排除を旨とするはずの人種主義にも、じつは、人びとの平等への希求が表現されている点である。在特会(「在日特権を許さない市民の会」)のような運動のなかにも、一種の普遍主義の契機を看過すわけにはゆかない。しかし、彼らの普遍主義では、平等の権限の有資格者の集団としての民族が即時的に前提されてしまっているのである。彼らの排外主義には、資格のない者が国民社会の有資格者であるかのように平等の権限を享受してしまっている、という告発が含まれているのである。在特会の人種主義は、この点で、移民排斥の運動や先に見たヨーロッパ極右の論理と共通するものをもっている。現在の人種主義は、ますます「自他の別」を強調し、国民のなかに入って来る者に対する排外主義の性格を強めてきている。
(『レイシズム・スタディーズ序説』所収「レイシズム・スタディーズへの視座」pp41/以文社/2012年)

ファクトチェック福島をめぐる「正論テンプレ」をわかりやすく図式化すると、以下のようになる。

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「福島差別」を懸念する人、あるいはニセ科学批判の人は、これが現代的ヘイトスピーチの典型的論法のひとつだということを知っていてほしい。繰り返すが、「差別されている人が常に正しいわけではない」というテーゼは真であり、正論である。しかし、「差別されている人は常に正しく批判されるべきではない」という意見に対してのみそれは有効であり、まったく違う観点で行われた被差別者の指摘に対してこのテーゼをぶつけることは、それ自体が相手の被差別属性を利用した差別行為である。

在特会や日本第一党のデモや街宣動画を見ると誰でも気がつくと思うが、彼らは頻繁にこう言っている。

我々は在日だからといって批判すべきことはちゃんと批判するぞ!

記事冒頭で引用した、数々の「リベラル」な人たちによる言説と、瓜二つであることが、おわかりいただけたのではないだろうか。

辛淑玉はアンタッチャブルな存在であったとか、「自然科学の敵は誰であろうとも容赦しない」というニセ科学批判の大原則が崩れた」という言説は、すべてこの在特会が主張してきたことの焼き直しにすぎない。そしておそらくそれを言っている人たちは、自分たちがまさかそうしたものと同類であるとは思ってもいないだろう。彼らは、自分たちは正論を述べているにすぎないと考えていると思う。しかしそれは、適切な文脈を大きく外れた「正論テンプレ」にすぎないのである。