宝永噴火で発生した泥流
1707年の宝永噴火の直後から、厚い降灰が堆積して川を堰き止めていた。しかし、堆積物はやがて崩れて、急激に水があふれ出す鉄砲水となった。これによって大量の堆積物が泥流となって流れ出したのである。
泥流による土砂災害は、富士山噴火の二次災害として長期にわたって流域の人々を苦しめた。相模湾に面する小田原藩の領地にはおびただしい量の泥流が流れ込み、50年以上も被害が断続的に発生した。
このため小田原藩は、まもなく領地の運営を放棄せざるを得なくなり、その一部を幕府に返上したほどだった。その後も泥流災害は長期にわたって続き、領地が小田原藩に戻ってきたのは70年もあとのことだった。
宝永噴火は、それまでに富士山で起きた噴火と比べても、かなり特異的な災害を広範囲にわたってもたらした。とくに流出した火山灰による用水路・河川の氾濫など、農林業を中心とする生産活動・経済活動に多大なる被害を与えたのである。
世紀の事業に拡大した対応策
これをみた当時の江戸幕府は、小田原藩主をはじめとする個別領主による対応には限界があると判断し、組織的な対応をはかることとなった。宝永噴火の翌年には、被災民救済と被災地復興費用として、全国に高役金(国役金)を課した。これとともに、降灰量の多かった被災地を幕府の直轄地に編入し、幕府代官による被災民救済を実行に移した。
さらに幕府は、火山灰流入で河床の上がった下流にある河川の浚渫を行った。たとえば酒匂川の川浚い工事を、諸大名に土木工事の費用を拠出させて行った。外様大名らに命じた「お手伝い普請」と呼ばれるものである。
これらの事業はいずれも、江戸幕府の成立以来、初めての大がかりなものであった。噴火当時は五代将軍徳川綱吉の治世末期であったが、こののち八代将軍徳川吉宗による享保改革まで、二次災害に対する幕藩領主の対策が長年にわたって実施された。