すべての人々を赦すこと。
日本二十六聖人の一人としてカトリック教会の聖人になったパウロ三木は、十字架の上から押し寄せた群衆に叫んだ。ここにおいでになるすべての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。私はルソンからの者ではなく、れっきとした日本人であって、イエズス会のイルマンである。私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これを神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王(関白)とこの私の死刑に関わったすべての人々を赦す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する。
信じられるものなんてないと思う気持ちと、信じるものを持ちたいと思う気持ちの、両方がある。長崎にある日本二十六聖人記念館に行った。印象的な展示物が無数にあったが、一番心に刻まれたものは、真剣に展示物を眺めながら祈りを捧げていた高齢の女性の姿だった。腰は曲がり、歩く速度もゆっくりで、時折椅子に座って休んだりもしていたが、俯くことは決してなく、正面を見据えて目を閉じたり、磔にされたパウロ三木をじっと見あげたり、何かを信じようとしているような、憧れ続けているような姿に、胸を打たれた。この世で一番美しい姿は、人間が祈る姿だと思った。
神の凄さというよりは、神を信じた人間の凄さを見た。信じるものを持った者は、信じるものがなかった時には、想像もしなかった力を発揮する。信じることの怖さもある。信じていたものが失われた時、もう、生きていけないほどの精神的なダメージを負う。怪しげな信仰宗教に騙されて身ぐるみを剥がされたり、国のために死ぬことが良いことだと教育を受けて、命を投げ出したりする。深い傷を負うくらいなら、あらかじめ、深い傷を負わないように距離を置いたり、期待することをやめたり、人間を諦めた方がラクで、賢明だ。洗脳されることと、信仰を持つことの違いは、どこにあるのだろうか。信じられるものなんてないと思いながら、なぜ、祈る姿に心を打たれるのだろうか。心が洗われるような、感動を覚えるのか。
宗教は消えても、信仰は残る。信仰を信頼に置き換えてもいい。人間を信頼できなくなると、人間以外のもの、多くの場合は『金』を信頼するようになる。金を集めて、集めた金の多寡によって、自分の安心を確認しようとする。表向きには命が大事だと言いながら、生き方が、命よりも金が大事だと語るようになる。命よりも金を優先して、体を壊したり、心を壊したり、人間関係を壊したりする。コミュニケーションとコントロールは違う。コミュニケーションの顔をしたコントロールが跋扈すると、人は、人を信じられなくなる。壊れた部分を、祈る姿が修復する。人間に対する不信感を、祈る姿が払拭する。信じるとは、決して失われることのない命を抱くことだと思う。それは、いかなることが起きても、人間を許すこと。自分や他人を見捨てないこと。信頼に、裏切りはない。信じることに、見捨てられることはない。
愛することは許すこと。一度や二度ではなく、何度も何度も許すこと。許すことと、諦めることは違う。許すこととは、諦めないこと。傷つかないための予防線を張り巡らせることではなく、傷つかないための予防線を越えること。人間を見限らないこと。自分や他人を見捨てないこと。誰一人置いていかないこと。全員連れていくこと。すべての人々を赦すこと。ヨハネによる福音書に、次のような言葉がある。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。神は、神を愛しなさいとは言っていない。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさいと言っている。あなたがたが、互いに愛し合いなさいと言っている。人間に見捨てられても、信仰に見捨てられることはない。すべての人々を赦すこと。神は、愛なり。愛は、死よりも強い。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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