日本人とエイリアンの謎:その5
ベルギー王室が受け取った「聖櫃」の中にあった鞣革(なめしがわ)には、驚くべき文字が並んでいた。カール大帝を悩ませ、アルベール1世を精神不安定にした鞣革に書かれていた謎の4文字は、まぎれもない江戸時代に発生したUFO事件、世にいう「虚舟事件」(うつろぶねじけん)の際に残されていた文字だったのである!
昨年、2023年2月7日にNHKで放送されたニュースの「首都圏ネットワーク」の中でも、この「虚舟事件」について、「茨城にUFO? 円盤型『うつろ舟』伝説とは 滝沢馬琴ら奇談集に挿絵も」と題して紹介していた。
「首都圏ネットワーク」では、「うつろ舟」伝説は茨城県の海岸に江戸時代、円盤型の舟が漂着したという伝説です。「南総里見八犬伝」で知られる滝沢馬琴らが書いた奇談集などによると、時は1803年、いまの茨城県神栖市周辺の海岸に直径およそ5.5メートルの円盤型の舟が漂着しました。引き上げてみると、中には見たこともない服装の女性が1人。ことばは通じません。女性は60センチ四方ほどの箱を抱え、ひとときも離さなかったといいます、と伝えている。
さらに、水戸市にある常陽史料館は、およそ200年前、常陸国の海岸に、箱を抱えた女性を乗せた「うつろ舟」と呼ばれる円盤形の舟が漂着したという伝説を紹介しようと企画展を開きました。会場には、漂着した日付や場所が記された書物をはじめ、当時の資料など14点が展示されています、と水戸市内の展覧会を紹介している。そして、会場には「うつろ舟」研究の第一人者とされる岐阜大学の田中嘉津夫名誉教授が登場、「うつろ舟」についてを紹介していた。
面白いことに、会場には、漂着した日付や場所が記された書物をはじめ、当時の資料など14点が展示されているだけでなく、言い伝えに基づいて円盤形の舟を再現したオブジェなども展示されていた。茨城県出身の芸術家が手がけたもので、直径は3メートル、高さが3メートルあり、針金と紙で作られたものだった。このサイズで考えれば、まさに一人乗りの小型UFOという感じだ。
番組では、「うつろ舟」がUFOなのかは、わかりません。しかし、当時、何らかのものが茨城の海岸に漂着し、世間を驚かせたのは本当なのかもしれません⋯と伝えていたが、果たして「うつろ舟」はUFOだったのだろうか。そして、中からでてきた女性とは何者だったのあろうか。
◆曲亭馬琴と「兎園小説」
日本人の気質は、いつの時代も変わらない。江戸時代、好事家たちは奇談を見聞きしては、見てきたかのように吹聴してまわったという。現代ではTwitterなどのSNSで情報がすぐに拡散されるが、ニュースは「かわら版」しかなかった江戸時代、知識人の間では、いいネタを仕入れたら仲間たちと共有するサークルのようなものが作られた。これは現在も変わらない。
『南総里見八犬伝』の著者として有名な「滝沢馬琴」(たきざわばきん)、世にいう「曲亭馬琴」(きょくていばきん)もその主宰者の一人で、「兎園会」(とえんかい)なる会合を月一で開いていた。メンバーは今日でいう「都市伝説」の類を披露し、大いに盛り上がっていたという。
曲亭馬琴
この「兎園会」は、文政8年(1825年)正月から始まり、同年12月まで、各会回り持ちで行われた。発起人は曲亭馬琴ともう一人、江戸時代の随筆家であり雑学者だった「山崎美成」(やまざきよししげ)が務めた。この山崎美成は、家業を継いだが学問に没頭し破産したという人物で、きっと趣味が高じて金を使い果たした放蕩息子といったところか。なにせ曲亭馬琴らの「耽奇会」なる会にも参加しており、翌年から同じく兎園会に参加し中心人物となった人物である。
「兎園会」は、さしずめ「月刊ムー」好きの”ムー民”の集まりといったところか(笑)。文人が毎月一回集って、見聞きした珍談・奇談を披露し合い、その記録としてまとめたものが『兎園小説』(とえんしょうせつ)として編纂された。まぁ、簡単にいえば、みんなで集まってオカルト雑誌を作っていたということだが、日本人は今もマニアの聖地的イベント「コミケ」などに多くの人が集まり、同人誌を買っているのを考えると、何も変わってない。逆にそうした傾向は強まっていると思う。
『兎園小説』
「兎園会」の会合に参加したのは正員として12名、客員が他に2名であった。曲亭馬琴(滝沢解)、山崎美成、関思亮、屋代弘賢、西原好和、大郷良則、桑山修理、亀屋久右衛門、荻生維則、清水正徳、中井豊民、滝沢興継(琴嶺)。屋代弘賢は「古今要覧塙」の編者として高名な国学者である。好事家の山崎美成は「海録」の著者としても知られている。滝沢琴嶺は馬琴の息子だが不肖で、琴嶺の回は馬琴が代筆したといわれている。もちろん内容は「珍談奇談」、現代でいうオカルト・ホラーや都市伝説、奇人変人から忠義、孝行話など多岐にわたった。
「兎園会」で話し合われた主な話題には、以下のようなものがあったという。
・金霊(金玉、かねだま、かなだま)は、金の精霊、または金の気。
・貧乏神(びんぼうがみ)は、取りついた人間やその家族を貧乏にする神で、日本各地の昔話、随筆、落語などに名が見られる。
・オサキオサキ(尾先、尾裂、御先、尾崎)は、キツネの憑き物で、オサキギツネ(尾先狐、尾裂狐、御先狐、尾崎狐)ともいう。
・空狐(くうこ)とは、神獣または妖狐のこと。狐が年を経たものであると考えられている。
・提灯火(ちょうちんび)は、日本各地に伝わる鬼火の一種のこと。
・立石様(たていしさま)は、全国に分布する立石(メンヒル・道標・墓標など)を周辺住民が崇拝あるいは畏怖の気持ちをこめて呼ぶ尊称のことである。
文筆家であった馬琴は仕入れた古今東西のミステリー事件をネタを文章にしたため、タイトルを『兎園小説』とした。さしずめ江戸時代の月刊「ムー」的なものであった。実は、『兎園小説』には日本のみならず、後々、全世界の宇宙考古学者、古代宇宙飛行士来訪説支持者たちの注目を集めることとなる「ある重大な事件」が記されていた。発表されたのは1824年。記事のタイトルは「虚舟の蛮女」(うつろぶねのばんじょ)だった。
「虚舟」(うつろぶね)は、各地の民俗伝承に登場する舟であり、他に「空穂舟(うつぼぶね)」や「うつぼ舟」とも呼ばれる。馬琴は、「虚舟の蛮女」の事の顛末を以下のように記している。
時に享和3年(1803年)春、小笠原越中守が治める常陸国にある『はらやどり』なる浜に一隻の『虚舟』が流れてきた。地元の人たちが船体を引き揚げたところ、それは香箱(こうばこ)のような形をしており、高さは約3.3メートルで、直系は5.5メートル。天井はガラス張りで、隙間には松脂が塗ってある。船体の底は鉄板を重ねて貼っており、強固な造りになっていた。
ガラス窓を通して内部を見ると、そこに異人の女性がいた。彼女の髪と眉毛は赤く、肌の色は桃色。白く長いつけ髪を背中に垂らしていた。それは動物の毛のようでもあったが、よく分からない。まったく言葉が通じず、どこから来たのか、聞くことさえできない。蛮女は約60センチ四方の箱を持っていた。大切なものらしく、片時も離そうとせず、人を寄せ付けようともしない。舟の中には4リットルほどの水が入った瓶と敷物が2枚、お菓子のようもののほか、練り肉のような食べ物があった。蛮女は港の村人たちが集まって、あれこれ話している様子をのどかに見つめるだけだった。
古老がいうには、きっと英国の王女に違いない。嫁いだ先で密夫(みっぷ)がいることがばれた。男は処刑されたが、彼女は王女ゆえ殺すことができず、やむなく虚舟に乗せて海に流し、あとは運を天に任せたのだ。もし、そうならば、箱の中身は密夫の首ではないか。同じようなことが近くの浜で昔あった。漂着した虚舟には俎板(まないた)の上に載せた生首があったという話だ、この蛮女も、箱の中に愛した男の首が入っているゆえ、肌身離さないのだろう。
いずれにせよ、この一件はどうしたものか。役所に届ければいろいろと大事になり、費用もかかる。かつて、隠密のうちに処理したことがあるゆえ、今回も蛮女を元の虚舟に乗せて、そのまま沖に流してしまったという。なんとも非情なことをしたものである。慈悲の心があれば、こんなことにはならなかったものを。蛮女は不幸であった。
ところで、虚舟の中には「△王➗△」のような蛮字が書かれてあった。近ごろ浦賀沖に停泊したイギリス船にも、同じような蛮字があった。思うに、蛮女はイギリス人か、もしくはベンガルやアメリカなどの王女なのだろうか。はっきりしたことは分からない。当時の好事家が移したものが伝わっているが、いずれも絵や説明文がおおざっぱで、なんとも残念でならない。もし事情を知っている人がいたら、ぜひ聞いてみたいものだ。
「虚舟」とはUFOだったのだろうか。そして、中からでてきた蛮女とはいったい何者で、どこから現れたのか。
<つづく>