ブログNO.184 高句麗に奪われて九州には38基残るだけ 残された貴重な鉄製短甲や冑類 | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.184

高句麗に奪われて九州には38基残るだけ

残された貴重な鉄製短甲や冑類



先のブ当ログでも何回かお伝えしたように、倭(いぃ)国は朝鮮半島に攻め入り、同じく半島の支配権を得ようとしていた北の高句麗と激しく衝突した。4世紀から6世紀ごろまでの話である。

 その結果5世紀の初め407年には、一挙に高句麗を壊滅に追い込もうとした倭軍は、百済や新羅の山城で高句麗の王・好太王が派遣した5万人の歩兵や騎兵に遭遇した。

 倭軍もおそらく数万人の大軍であったろう。激しく戦いを挑んだが、散々に負けたらしい。

現在の中国吉林省集安市に立てられた好太王の活躍を記した広開土王(好太王)石碑は「倭軍を湯盡するまで(誰も居なくなる迄)徹底的に(殺して)やっつけた。(倭軍が身に着けていた)鎧鉀(よろいかぶと)一万余領と、数えきれないほどの軍の機材を奪った」と記録している。

 「高句麗軍に略奪された鎧冑」は「一万余領」とあるから、最低でも「一万領」をくだらない数だろう。知り合いの研究者と話したが、「『鎧』といってもみんな鉄製とは限らない。木製もあるのだろうし、誇張もあるのではないか」と半信半疑であった。

 疑うのはいいことだ。しかし、まず正確に碑文を読み解く努力をしなければならない。「よろいかぶと」には「金へん」が付いている。まず鉄製だろうと考えるべきだ。倭軍の上級将校らが身に着けて、戦いに挑んだのだろう。予断は避けるべきだ。木造ではなかろう。

もちろんこの「倭(ヰ)軍」は「大和政権の軍隊」ではない。何回も言っているように「大和政権」が正式に発足したのは701年、政権としては初めての「大寶年号」を制定してからだ。「倭(ヰ)軍」と言うのは九州政権の軍隊のことである。中国の史書『旧唐書』も当時、日本には「倭国」に続いて「日本(大和政権)」があったと記録している。


その「九州倭(ヰ)政権」は、大陸から熊本に渡来した「姫(紀・木)氏」と「熊曾於族」が主体の氏族であった。6世紀に仲間割れを起こし、同じく大陸から鹿児島に渡来した袁本所を頭目とする熊曾於族(熊襲・隼人)が「最後の姫氏の王」であったらしい「磐井(石井)」を殺害して政権を握った。

 そして「袁氏」は列島で初の年号である「九州年号」を制定した。522年に制定された「九州年号」は、九州倭政権の残党が制定した養老5721)年の「大長」まで続いていた。この年号群は『続日本紀』や、鹿児島から青森まで、全国の史書数十冊にきちんと記録されている。

 国史学者や考古学者らは、税金をむしばみながらこうした事実にいっさい目をつぶり、市民にいかがわしく卑屈な「古代史」を説き続けてきた。

 もちろん、国史学者や考古学者らにその責任をすべて背負わせるのは酷であろう。彼らは藤原不比等が作らせた『日本書紀』を「日本史解明の主軸に据えてしまっていた」からだ。『日本書紀』の最大の目的は、新しい政権である「大和政権」だけが「史上列島の唯一の権力であった」とする虚構を人々に信じ込ませることだった。なぜか「九州隠し」と「中国隠し」が実行された。

 国史学者や考古学者らが負うべき「責任」は、客観性のない史書である『日本書紀』を歴史の主軸に据え、その内容に反する様々な「史書」に偽書、ないしは「偽書まがい」という烙印を押し、その内容について無視し、ひたすら政権へ擦り寄る姿勢を続けたことである。


 というわけで、九州倭政権が407年までに作っていた鉄製の鎧冑が今、どれほど残っているかが知りたくなった。

 しかし、これはとてつもなく難題であることがわかってきた。まず第一に九州の古墳や遺跡の年代がほとんどでたらめであることだ。大陸では紀元前2000年以上前から作られていた須恵器を、日本では「西暦5世紀から作られ始めた」と勘違いしている。須恵器が出土すると大阪・堺の「陶邑編年」で時期を判定する。渡来人が運んできたことは全く頭にない。

 かといって、放射性炭素(14C)による年代測定など理科学的な判定をしようともしない。「市民だまし」の年代判定を続けて、「面子を保とう」というわけだ。

 「九州倭政権」が作った鎧冑はどこで作られたかも難題だ。支配していた日本全国で作ったものなのか。はたまた九州全域だけなのか。朝鮮半島支配の根拠地であった半島南部で作ったことも事実だろう。どこで何基の鎧冑を作ったのかもよくわからない。

 そこで手掛かりに、九州内で作られ「残された」というか、「高句麗の略奪を免れた」鎧冑が今、いくつ発見されているかパソコンなどを使って数えてみた。

 ◇福岡県鎧6基、冑3基、◇佐賀県1基、冑0基◇長崎県0基、◇熊本県鎧20基、冑12基◇宮崎県鎧9基、冑3基、◇鹿児島県鎧2基、冑1基と分かった。(熊本県分は西嶋剛広氏の論文「熊本地域出土鋲留短甲の検討」、他は「九州各県の金、銀、宝飾品出土分布」を使った)。

 この数字にはおそらく間違いもあるだろう。集計されたのがかなり以前
184-1 である。ちなみに福岡県分では行橋市の稲童古墳(円
墳)の立派ですごい鎧兜、鉄製品類が抜けていた(写真)。

 全体的に見ると、出土は圧倒的に円墳(径1053m)が多い。円墳は地下式横穴墓や崖墓(横穴墓)などの検討で、熊曾於族が採用した古墳であるらしい。姫氏は前方後円墳を氏族の墓としたらしい。前方後円墳からの出土は3例ほどしかないから、やはり戦いの主力は姫氏だったのかもしれない。損害を直接受けたのではないか。

いずれにせよ、九州倭政権が高句麗との戦いで大きな痛手を負ったことは間違いない。何回も挑戦を繰り返していたことが碑文からも読み取れる。また、『宋書』に記す九州政権の「倭の五王」の上表文にも見える。国家の財政を揺るがす大敗北でもあったろう。

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