Sweet Sweet Birthday ― Arlen―
鏡がある。一点の曇りも無い鏡だ。映っているのは見慣れた私の顔。私が手を伸ばせば、鏡の中の「彼」も私の動きを真似る。
「……鏡だな」
わかりきったことを口にすると、「彼」の唇も私と違わぬ動きをした。ああ、やはり鏡だ。なぜか妙な安堵を覚えて頬を緩める。
私と同時に「彼」も笑った。だがそれは、私にはできようはずもない無邪気すぎる笑みだった。
そして気づく。「彼」は私の鏡像ではないと。
「アー……」
呼ぼうとした名は声にならず、「彼」は悪戯っぽく目を細めて口元に人差し指を立てた。
子供が内緒話をする時のようなその仕草を黙って見つめていると、「彼」はポケットに手を差し入れて鈍い光を放つ指輪を取り出した。年季の入ったシルバーリングだ。
どうして、それがそこに? 思わず、私は自らの右手に目を落とした。中指にあるはずの指輪は無い。
視線を上げると、「彼」は少年のそれだった表情を穏やかなものへと変えて、右手の中指に指輪ををはめた。その手がゆっくりと私の眼前にかざされる。そう、どこか誇らしげに。
数度の瞬きによってようやく理解が追いついた。硬直していた思考回路が和らいで、私の表情を「彼」とよく似た穏やかなものへと導く。
「それも、『あるべき場所』に戻ることができたんだな」
「彼」は答えるかわりに満面の笑みを浮かべると、唐突に踵を返す。完全に背を向ける間際、弧を描く薄い唇が「Bye」と呟いた。
「……ああ」
僅かな間に「彼」の背中が遠ざかる。「彼」は後ろ手に手を振った。そして振り返らずに消えて行く。眩いほどに真っ白な雪の向こうへと。
そして私の意識も白い光に飲まれた。
意識が浮上するきかっけは、肌寒さだった。シーツを纏っていない肩のあたりが冷え切っている。
室内はまだ薄暗い。ヘッドボードに置かれたアンティーク調の時計は、ベッドから出るには少しばかり早すぎる時刻を示していた。曖昧だった夢と現実の境界が、徐々に輪郭をはっきりとさせていく。
ここが夢ではなく現実だと確信させたのは、寄り添うように私の隣で眠る君だった。
首筋に流れ落ちた一房の髪を手に取って、指先で梳く。その行為に何ら意味は無かったが、君は目覚めて私の頬に手を滑らせた。「泣いているの?」と。
「泣いて……?」
一体何を言っているのだろうか。そう思いつつ、君の手に手を重ねるようにして私の頬に触れる。指先がほんの僅かに湿った感触を伝えてきた。
「……涙?」
君は頷く。それでもしばらくの間、信じられなかった。
君は問う。「悲しい夢でも見たの?」と。
「……わからないんだ」
夢の記憶は、もうほとんど失われかけていた。朧げに覚えているのは、懐かしさにも似た何か。この感情をどう表現していいのかわからない。
「夢を見て涙を流すなんて、まるで子供だな……。こんなことは久しぶりすぎて、涙の拭い方を忘れてしまったらしい」
冗談めかして自嘲しつつも、戸惑っていた。私に涙を流すことなど許されるのだろうか、と。
「……ん」
目尻を柔らかいものがかすめた。君はキスで涙を拭うと、私の頭を裸の胸に抱きポンポンと撫でる。
「ふっ……」
幼子のような扱いに肩を落とす。見透かされている。全てを。
「まいったな」
ピットボスだった頃から、君に何度もゲームを仕掛けた。だが、真の意味で勝者となったことはない。最初のゲームも、最後のゲームも、そしてこれからも。私はきっと永遠に君に敵わない。
「……それでいいんだ」
胸元に抱かれたままごちると、君は小首を傾げる。
「なんでもないよ」
柔らかな胸にキスを落としてから,今度は私の胸に君を抱く。その肩は、私と同じように冷えていた。
「温めあおうか」
「あのクリスマスの時みたいに?」と君は微笑む。
「あの時より、もっと熱く」
微笑みを返して、君と二人で頭からシーツをかぶった。戯れ合うように上へ下へと身体を重ねながら、手を繋ぎ何度も唇を触れ合わせる。
やがて互いの吐息が色づき、シーツの内側が熱に満たされた。深く深いキスを交わしながら、ほてり始めた君の肌を手のひらで辿っていく。だが最も熱の集まる場所に触れようとしたところで、君はぎゅっと膝を閉じ私の指先を拒んだ。
「……嫌だったかな?」
潤んだ瞳を覗き込むと、君は「先に伝えておきたいから」とかぶりを振って、私の耳元に顔を寄せる。囁かれたのは「メリークリスマス」と「生まれてきてくれて、ありがとう」の言葉。
「ありがとう」
あえて「Happy Birthday」とは言わなかった優しさに、たまらず君をかき抱いた。
「愛しているよ……」
熱を帯びた私の声はひどく掠れていた。幸せそうに微笑む君に、溢れる愛しさが止むこととはないだろう。
~ fin ~
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